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渡部陽一 講演会講師インタビュー

低い声でゆっくりと丁寧な話しぶりで、一躍人気者になった戦場カメラマンの渡部陽一さん。テレビを中心としたメディアによく出るようになったのは2010年頃だった。すべては戦場カメラマンとして活動するため。撮影した写真を多くの人に見てもらい、戦争の悲惨さや命の大切さを知るきっかけになってほしいという想いが大きい。また、長期間の戦地取材の活動費のためでもある。 Speakers.jpでも大人気の渡部陽一さんにこの数年、特に注視していたというウクライナ取材について、そして現在の講演内容など講演会を通じて届けたいことを伺った。

(text:高田晶子、photo:遠藤貴也)

2014年からウクライナを取材 戦争取材の8割は危機管理に徹すること

――Speakers,jpのインタビューは2016年に一度受けられていますが、それ以降の渡部さんの取材活動について教えてください。

渡部陽一 2016年はアメリカでトランプ大統領が選ばれた年です。それにより「アメリカファースト」という自国ファーストの概念がアメリカだけではなく他国でも広まりました。多くの国が自国の利益だけを優先する外交政策を取り始め、衝突が必要ない場所で政情不安が起こり、争いに繋がっていきました。前回のインタビューから約7年、こうした世界情勢は突発的に起こったことではなく、すべて繋がっています。局地的にではなく、ウクライナでもアメリカでも中東でも日本でも、それぞれの地域が悪い方向にうねり始めました。

 

――2014年のウクライナ騒乱の時から、渡部さんはウクライナでの取材をしていたのですよね。

渡部陽一 そうです、2014年2月、ロシア寄りのヤヌコーヴィッチ大統領が首都のキーウで起こった大規模な民主化運動により排除されました。それ以前からも「オレンジ革命」と呼ばれる民主化運動があり、私は意識的にウクライナについての情報を得るようにしていました。このウクライナ騒乱は「尊厳の革命」と呼ばれ、民間人も犠牲になりました。その後、クリミア半島の帰属を巡り、ロシアがクリミアを編入したと一方的に宣言しました。旧ソ連と東欧の大きな歴史のうねりが繋がっているのです。私は2014年、ウクライナ東部のドンバス地方に入り、取材を進めていました。

 

――ウクライナにはどれくらいの頻度で、何回くらい行っているのでしょうか。

渡部陽一 ウクライナには2014年から11回取材に入っています。戦争取材のペースは、現場の情勢によって変わります。基本的に長期取材はせず、月1や2カ月に1回など、短い期間で何回も日本と現地を行き来する形です。取材場所もウクライナだけではなく、ミャンマー、シリア、香港、イラク、スーダンなど、コロナ前はほぼ毎月、どこかの国へ取材に出掛けていました。2020年1月までは、当時トランプ大統領が勝手にイスラエル寄りの和平案を強行しようとしたため、中東のパレスチナにいましたが、コロナにより国外に出られなくなってしまいました。

2022年2月24日のウクライナ戦争勃発からまた再び頻繁に動くようになりました。僕は2022年5月にキーウの北西部30キロ地点にあるイルピン、ブチャ、ホストメリというロシア軍による民間人の虐殺が起こった場所の取材をしました。虐殺の状況に加え、ロシア軍がどんな構成でウクライナに入ってきているのか、ロシア軍本丸の部隊なのか、特殊部隊なのか、ワグネルという殺戮を専門にしている戦闘集団が入ったのか、徴兵された民間の兵士なのかなど、戦い方を検証することによって、その地域がいかに重要なルートなのかがわかります。残された傷跡、市民が犠牲になった状況、ロシア軍が入ってきたルートの識別が取材のメインでした。実際に虐殺は行われており、無惨な状態の遺体をあえて見せつけることにより、侵略戦争の残虐性が浮き彫りになります。第二次世界大戦でナチスが行ったような歴史的な虐殺は、今でも行われているんです。

 

 

――このような戦争取材は渡部さんお一人で動いていくものなのですか?

渡部陽一 戦場カメラマンというと、危険な紛争地にカメラを何台も持って一人で飛び回るイメージがあるかもしれませんが、戦争や紛争の取材では、その土地で生まれた外交官、通訳の方、何か起こったときに守ってくれるセキュリティの方、僕を含めた最低4人で取材チームを組み立てます。そこで初めて前線を動きながら写真を撮ることができる。現場の危機管理は僕の知識や経験によるものではなく、その地域で生まれ育った方が指示します。彼らの言葉によって、僕も身を守ることができるんです。

逆に、取材以前の準備として取材チームを組み立てられなかったら、その取材そのものをリセットし、一回バラしてからもう一度取材チーム組み立ての段取りをします。それほど取材チームの組み立ては重要なことなのです。取材のスタートも結果も、すべてこのチーム作りで決まります。ですから、一人で勝手に戦場に行くことは絶対にありません。敵に捕まったら、人質になって外交に利用されてしまいますから。

世界中さまざまな戦場に行き、何度も行ったり来たりを繰り返していますが、各国での取材チームは同じ人に頼みます。何度も会うことで信頼関係を築けていますし、ウクライナではこの方々、イラクではこの方々など、取材の動き方を理解してくれる方々にお世話になっています。

 

――危険な目に遭ったこともありますか?

渡部陽一 20代の駆け出しのときは、とにかく前線に行かないといけないという思いが強かったんですね。僕はフリーランスのカメラマンなので、定期的に入ってくるお金がない。自由だけど、収入がない。写真を撮って、それが雑誌に掲載されたりテレビに使われたりしなければギャランティが貰えないので、昔は1回1回の取材でなにがなんでも形にしないとならないと思っていました。確かに臨場感のある良い写真が撮れることもありましたが、そういう取材だと、怪我をしたり、カメラを没収されたり、尋問を受けたり、捕まりかけたりとトラブル多かった。結局無理をすると取材そのものがうまくいかなかったり、現地との繋がりが壊れてしまったり、後に続かない取材の仕方だったと思います。

戦争取材の80%は危機管理です。情報管理、連絡、現地の人との繋がり、何か起こったときを想定した複数の避難経路の確保などを準備しておかないといけない。そのために、時間・労力・資金を集中的に落とし込みます。残りの20%が現場に入ってからのインタビューの取り方、現場での動き方などの技術や経験ですね。それが僕の30年に渡る戦争取材のやり方です。

 

――渡部さんから見たウクライナ戦争の現状を教えてください。

 

渡部陽一 僕がウクライナ戦争の取材に入るときは、拠点をキーウに置いています。キーウのアパートを借りて、機材を持ち込み、充電などできるように基地を確保して、取材チームと共に動いています。ウクライナ戦争が起こってからは激戦地の東部地方には取材に入れていません。現在首都キーウの街並みは整えられてきています。お店が開かれたり、生活のライフラインが徐々に回復している兆しがありますね。

繰り返し行くことによって、戦争の残虐性だけではなく、その地域の人が持っている対応力や考え方を直に受け取ることができ、自国を愛するウクライナの方々の逞しさを感じています。それが兵力が小さいのに、大国ロシアに対抗できている理由のひとつだとも思います。

 

――今後のウクライナ戦争はどのような動きになると予想しますか?

渡部陽一 あえて明確な勝ち負けをつけずにお互いのメンツを保たせるのではないかと思います。軍事外交で揺れながらもバランスをとるのではないか。この戦争の背景にはアメリカ、ドイツ、フランス、中国などの大義や利権が絡んでいますからね。2014年のクリミア危機のときも白黒つけずに休戦・停戦を繰り返してきたので、同じことが想定されます。

ロシアは日本の隣国で、北方領土問題も抱えています。日本も他人事ではないのですが、遠く離れた地域での出来事は次第に人々の関心も薄れていきます。ただ、触れる機会があるときに触れていくことが大切だと思います。肩の力を抜いて国際情勢を継続的に見守ることでだけでも十分です。

 

SNSでも情報発信 多くの人たちに戦争の残虐性と命の大切さを知ってほしい

――渡部さんのターニングポイントとなった取材は何でしょうか?

渡部陽一 戦場カメラマンとしてのターニングポイントは、2003年3月20日に勃発したイラク戦争です。アメリカのブッシュ大統領とイラクのサダム・フセイン大統領が激突した戦争です。まず、圧倒的に取材した時間が長かった。戦争前、戦争中、戦争後と、数年間に及び何度もイラクに通いました。現地で取材することによって、どの地域の戦争でも家族のような友人ができましたが、イラクでも信頼関係を築いた友人がたくさんできました。

イラクでは同じイスラム教でも、考え方の違いによって少数派のスンニ派、多数派のシーア派と分かれます。戦争前は少数派のスンニ派政権だったのですが、戦争後は多数派のシーア派が政権をとって、血みどろの内戦が起きました。僕の友人たちの間でも宗派や住み家や生活習慣の違いによって、武器を取って命の奪い合いが起こりました。それによって命を落とした友人もたくさんいます。

 

――日本とはまったく違う状況ですね……。

渡部陽一 平和教育や自由、人権、平等という考え方は、あくまでも国家体制が整って民主化されたからこそ議論できること。中東やアフリカなど政情が不安定な国では、力を持っていないと殺される、奪われる、飲み込まれます。先進諸国が考えた自由な民主化という考え方を押し付けても、部族という単位で生活してきた中東やアフリカでは長続きしない。部族のルールや宗教観、慣習など、その地域に根づいた考え方の指導者がゆっくりと民衆に染み込ませていかないといけません。

 

――渡部さんにとって戦場カメラマンとしてのやりがいは何でしょうか。

渡部陽一 世界中に友人ができ、情報が入ってきて、世界情勢の枠が見えてくると、どこがどう繋がってくるかがわかってきます。経済、資源、環境問題、民族、宗教など、戦争の背景も理解できてきます。戦争取材を続けていくことによって、勉強などではなく、興味を持ってダイナミックな国際情勢が理解できるようになりました。続ける力が大切なのだと感じますね。

 

――渡部さんはTwitter、Instagram、TikTokなどSNSでも情報を発信されていますよね。

渡部陽一 僕が20~30代の若い頃は、写真を発表する場所は新聞、雑誌、一部のテレビなどのメディアに限られていました。今はインターネット、特にSNSは個人が持つ情報や思いを全世界に発信することができます。僕のSNSでも写真を通じて繋がれる人が増え、たくさん反響があります。メディアでは使われなかった写真など、無限にストックがあるので、「今日はこれを出してみよう」など試行錯誤しながらやっています。カメラマンとしてのクレジットや「苦労して撮った写真はカメラマンの財産だ」などという堅苦しいことは気にしないようになりました。それより、多くの方に僕の写真を見ていただく機会を増やすほうが重要だと思っています。

戦争の犠牲者はいつも子どもたち 講演会では戦場の子どもたちの今を伝えたい

――渡部さんの講演会では、どのような内容をお話されるのでしょうか。

渡部陽一 僕が初めて講演会をさせていただいたのは30歳くらいのときでした。地域の公民館に集まった方々に向けてお話させていただきましたが、まだメディアにも出ていない、いちカメラマンの話に耳を傾けてくださいました。今でも戦争・紛争地帯にいない限り、講演会の依頼をいただいたら、具体的な戦場のお話をお伝えしたいと思っています。戦争の犠牲者はいつも子どもたちであり、どの戦争でも変わらない現実です。そして、どの国でも家族の愛は変わらない。講演会では、戦場の子どもたちの暮らしがどんな環境なのか、どんなものを食べ、どんな状況で学び、寝泊りをしているのか、子どもたちの暮らしを中心に伝えるようにしています。

 

――講演会の際に渡部さんが心掛けていることは?

渡部陽一 ご紹介したい写真はたくさんありますが、多すぎても話が入ってこないと思うので、1回の講演会で10枚くらいの写真を紹介します。専門的な戦争の背景や外交戦術などの話はしません。歴史や勉強などではなく、僕の実体験をストーリーとして、わかりやすくシンプルに、具体的に心を込めて話すように心掛けています。講演会を通じてたくさんの人に届けていきたいのですが、特に日本の若い世代に届けたいですね。戦場の子どもたちの暮らしや声に気が付いてほしいと思います。

 

――今後の活動のご予定は?

渡部陽一 今後も引き続き、戦場カメラマンとして必ず現場に行くことを続けていきたいと思います。無理をせず、気持ちと体力が続く限り、焦らずマイペースにコツコツと活動していきます。世界に戦いがある限り、子どもたちの姿や声を記録に残し、この実体験を講演会でも伝えていきたいと思います。

 

――貴重なお話をありがとうございました。

 

 

 

 

 

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