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野村忠宏  講演会講師インタビュー

1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピックで2連覇を達成。2年のブランクを経てオリンピック代表権を獲得し、2004年アテネオリンピックで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック3連覇を達成する。
2015年8月29日、全日本実業団柔道個人選手権大会を最後に、40歳で現役を引退。現在は自身がプロデュースする柔道イベント「野村道場」を開催する等、国内外にて、柔道の普及活動を展開。また、テレビでのキャスターやコメンテーターとしても活躍。自身の柔道経験を元に講演活動も多数行い、全国を飛び回っている。そんな野村忠宏さんにお話を伺った。

(text:大橋博之、photo:小野綾子)

未来への期待を引き寄せるため、今日できることを頑張る

──野村さんは、柔道でオリンピック3連覇という輝かしい経歴をお持ちです。そもそも柔道を始めきっかけは?

 

野村忠宏 祖父が「豊徳館野村柔道場」の創設者で、父は元天理高校柔道部監督。叔父はミュンヘンオリンピックの金メダリスト、兄も柔道家という柔道一家の環境だったので、生まれたときから柔道が身近にありました。でも、柔道だけでなくいろんなスポーツにチャレンジさせてもらいました。

 

──例えば?

 

村忠宏 柔道は3歳から祖父の道場で始めましたが、母が元水泳選手でスイミングスクールのコーチをしていたので、2歳から水泳を習っていました。小学校のクラブではサッカー部に入っていましたし、地元の少年野球のチームにも入っていました。ある程度真剣に取り組んだのはこの4つのスポーツです。そのなかで少年時代の自分が一番、夢中になれたのが柔道でした。でも、すごく弱かったですけどね(笑)。

 

──他にも選択肢があった中での柔道だったんですね。

 

野村忠宏 中学に進学するときに柔道に絞りました。私は柔道一家に生まれましたが、身体も小さく弱かったので誰からも期待されていませんでした。そのこともあって私は自分が好きになれませんでした。自分に自信が持てなかったからです。でも、何かに打ち込むことで自分にも誇れるものができるのではないかと考えました。自分が自分に期待させてくれるような想いを抱かせてくれたのが、柔道だったんです。

 

──柔道ではすぐに強くなって行ったのですか?

 

野村忠宏 いや、ぜんぜんです(笑)。自分の実力は自分が一番、わかっていました。

柔道は一対一の勝負で、畳に上がれば頼れるのは自分しかいません。当時は、自分の実力を理解した上で実現可能な目標を設定し、その目標に向かって行くことに力を注いでいました。その目標が達成できないこともありましたし、心が折れそうになったこともありました。祖父や親から柔道をやりなさいと一度も言われたことはありません。生まれたときから柔道はあったけれど、柔道を選んだのは自分です。決断したのは自分だということを大きな支えにしていました。

また、未来への期待がありました。身体も小さかったけれど、自分が信じた道をやり抜けば、いつかはトップの選手になれるんじゃないかという、確証のない未来への期待です。今は弱いけれど、自分の可能性を信じて、真剣にやり続けていれば、いつかは凄い選手になれるんじゃないかと思っていました。未来への期待を自分に引き寄せるため、今日できることを頑張ろうと考え、実行してきました。

 

歩んできた道のりを伝えすることで、何かが変わるきっかけに

──オリンピックに届きそうだと思ったのはいつくらいですか?

 

野村忠宏 自分自身が大きく変わったのは大学2年生のときです。1994年正力杯(のちの全日本学生体重別選手権)で1歳年上の園田隆二さんに決勝で1本勝ちしました。園田さんは当時、世界チャンピオンでしたので、自分にも可能性はあるのかなと初めて思いました。少年だった頃は「オリンピックに出たい」という夢はありましたが、実際にオリンピックを目指せるかは別の話です。でも園田さんに勝ったことで確証のない可能性から手の届きそうな可能性へと変わりました。

その後オリンピックに出場できたのは大学4年生の時、1996年のアトランタオリンピックでした。

 

──そのアトランタオリンピックでは優勝されています。勝てたのはどうしてなのですか?

 

野村忠宏 大学2年生になった時、柔道部の師範で今でも恩師として尊敬している細川伸二先生からアドバイスをいただいた事によって、私の柔道に対する考え方や取り組み方が大きく変化しました。

 

──どのように変化したのですか?

 

野村忠宏 大学1年生の頃は大学内の予選で負ける程度の選手でした。勝ちたいと思い、努力もしているけれど、結果が出ない。そのことにモヤモヤがありました。月曜から土曜まで毎日練習して、目標を達成するために努力をする。でも、何のために努力をしているのかを忘れて、努力することで満足していました。

 

──そのことに自分では気がつかないわけですね。

 

野村忠宏 そうです。与えられた練習メニューを、時間を見ながら残り何本、残り何分とペース配分しながら、こなす練習に無意識のうちになっていました。細川先生はそのことに気付かせてくれました。「本気で強くなりたいのなら、時間に縛られなくていい。これ以上できないというところまで自分を追い込んだら練習をストップしてもいい。目の前にある1本だけに集中しろ」と。そのアドバイスをもらったことで自分の意識が変わりました。もともと好きで始めた柔道です。練習の質が大きく変わりました。

細川先生に「これが限界です」と言うと、「そんなものか」と返されたとき、「はい。そんなものです」とは言えませんでした。カチンと来たし、歯を食いしばって練習に取り組みました。すると、ここまでできるという自分の限界値が見えてくるんです。それは諦めの限界値ではなく、自分の全てを出し切る本当の限界値です。その限界値を高めて行けるように日々練習を重ね、それで自分自身が大きく変わりました。それと同時に、子どもの頃から好きだった背負い投げを「この技で絶対に俺は光り輝くぞ」という思いを持って、更に磨きをかけました。

 

──野村さんは、1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピックで2連覇を達成。そこから2年のブランクを経てオリンピック代表権を獲得し、2004年アテネオリンピックで柔道史上初となるオリンピック3連覇を達成されました。しかし、そこに至るまでにはさまざまな葛藤や苦悩、スランプも経験されたと思います。また、40歳で引退するまでに右膝前十字靭帯断裂や、肩や膝の手術も経験されています。

そのような話はぜひ、講演会の方でお聞きしたいと思います。

 

野村忠宏 私が子どもの頃から特別な存在で、常にチャンピオンだったなら「あなたは特別です」と言われるかもしれません。でも、本当に柔道は弱かったし、心も身体も弱い部分はたくさんありました。そんな私が自分の可能性を求めながら、人との出会いによって意識が変わり成長することができた。勝つ喜びや人から受け入れられる喜びを知って自分の人生が豊かになりました。

現在、講演は私にとって重要な活動のひとつですし、真剣に取り組んでいます。

ありがたいことにオファーしていただく企業さん、Speakers.jpさんのような講演会社さんがいます。私が歩んできた道のりを言葉としてお伝えすることで、聞いた方に届き、その方の何かが変わるきっかけになればといいなと思っています。それは私にとっても喜びですから。

可能性を持つということは、歩みを止めないということ

 ──「野村道場」を主宰し、そちらの方の活動も精力的ですね。

 

野村忠宏 私には柔道を大好きにしてくれた祖父がいて、見守ってくれた家族がいて、厳しさを教えてくれた先生方がいました。人との出会い、柔道との出会いで私の人生は大きく変わりました。

柔道の世界は「勝利至上主義」のところがあります。世界を目指すトップレベルの選手たちは大会やオリンピックは勝つためにやるので勝利至上主義なのは当然ですが、子どもの大会でもその傾向が見られます。

柔道の基本は「礼に始まり礼で終わる」です。対戦相手に敬意を持つことが大切です。子どもの時には柔道の基本と礼節を学びながら、何よりも柔道の楽しさを知ってもらいたい。

しかし、指導する先生が、子どもが一生懸命に努力していることを褒めるのではなく、負けたことを責める。対戦相手や審判に野次を飛ばす。そうしたことを目にすることがあり、懸念を抱いていました。子ども達には「ゴールは今じゃない」と伝えたいし、指導者や親御さんには未来を見据えた指導やサポートをしてもらいたいと考えています。「野村道場」は、ライフワークとして続けて今後も精力的に続けていきたいと思っています。

また今はそれに加え、福祉関係にも取り組みたいとも考えています。

 

──と、いうと?

 

野村忠宏 私は柔道選手を引退してからオリンピックにキャスターとして関わらせていただいています。しかし、今までパラリンピックに関わることはありませんでした。東京2020オリンピック・パラリンピックでは自国開催ということもあり、オリンピックだけでなく、パラリンピックのキャスターも務めさせていただきました。

私自身、これまで障がいを持たれている方と触れ合う機会はあまりありませんでした。だから、どう接したらいいか分からず、距離を保ちながらインタビューに行ったのですが、そんな気遣いなど必要がないくらい選手の皆さんはエネルギッシュでした。

先天的に障がいを持って生まれた方もいますが、多くの方は後天的です。学生時代、事故で下半身が動かなくなったという選手もいました。そのような方がパラリンピックに出場するまでには、私が味わったどん底以上のものを見ているわけです。そういう方が、スポーツのなかで希望を見い出し、残された身体の機能をどう使うかを考えてこられ、世界の舞台に立たれているんです。「これがスポーツの力なんだ!」と思いました。

 

──精神力が凄いですよね。

 

野村忠宏 私は膝の手術は4回しています。膝が悪く、やがて普通には歩けなくなるかもしれないと考えています。自分に照らし合わせると余計に障がいを持たれた方の苦労が分かります。身体障がい者だけではなく、知的発達、精神に障がいを持たれている方が積極的にスポーツに関わる機会を作りたい。それはリハビリにもなりますし、社会とつながるきっかけや精神的な側面でもプラスになると思うので、そういう取り組みもやって行きたいですね。

 

──それはとても良いですね。

 

野村忠宏 可能性を持つということは、歩みを止めないということです。いろいろなものに興味を持つ。興味が持てないのなら人に会えばいい。興味が持てるものと出会いを作るために歩き回ればいいと考えています。

 

──現役を退いてもアクティブでエネルギッシュに動き回っていらっしゃって素敵です。貴重なお話し、ありがとうございました。

 

 

 

 

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