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三嶋一輝 講演会講師インタビュー

プロ野球・横浜DeNAベイスターズで13年間にわたり活躍した三嶋一輝さん。ルーキーイヤーからフル回転し、オールスターゲームや侍ジャパンに選出されるなど華々しいデビューを飾る一方で、その後は思うような結果が出ず苦しい時期も経験しました。さらには、選手生命を脅かす国指定の難病「黄色靭帯骨化症」を発症。歩行すら困難な状況から、手術とリハビリを経て見事にマウンドへ戻ってきたその姿は、多くのファンに勇気と感動を与えました。現在は野球解説者として活動しながら、講演会の講師として「ピンチをチャンスに変える再起思考法」や「諦めない力」について語ります。今回は、講演依頼の『Speakers』に新しく講師として登録された三嶋一輝さんに、逆境との向き合い方、そして自分を信じ抜くことの大切さについてお話を伺いました。

(text:小山内麗香、photo:遠藤貴也)

外から見ることで気づいた野球の魅力と、解説者としての新たな視点

――2026年1月に引退を発表され、現在は野球解説者としてご活躍されています。今どのような思いで野球と向き合っていらっしゃるのか教えてください。

 

三嶋一輝  外から野球を見るのはすごく楽しいですし、やりがいを感じています。去年まで自分も現役でプレーしていたこともあって、今の後輩たちのプレーや、ファン目線で見るグラウンドの景色など、ユニフォーム姿の選手たちは想像以上にかっこいいなと純粋に感じますね。自分はこんなにキラキラした世界にいたんだなと、改めて思わされるような毎日です。野球に携わる仕事ができていることに対して、とても充実感を持っています。

 

――グラウンドの中にいた時と、外から解説者として見る時とでは、見え方は違うものですか?

 

三嶋一輝  そうですね。自分がマウンドに立ってプレーをしている時は、どうしても「目の前の相手バッターをどう抑えるか」ということを第一に考えてしまいます。自分のピッチングに集中するあまり、視野が狭くなりがちでした。でも、解説席に座って野球を見ると、もっと広い目で守備位置を見たり、試合全体の流れを俯瞰できるようになりました。

 

――テレビ番組などの解説を通じて、三嶋さんが視聴者に一番伝えたいと思っていることは何でしょうか?

 

三嶋一輝  僕はプロ野球の世界で、誰もがうらやむような素晴らしい成績を残したかと言われたら、そうでもないんですよ。でも、ピッチャーというポジションで先発、中継ぎ、抑えとすべてを経験させてもらいました。1年目にはオールスターゲームにも出場し、日の丸のユニフォームを着る機会にも恵まれました。その一方で、プロの世界では何度も大きな壁にぶつかったり、乗り越えられないような試練が来たりしました。

 

――良い時も悪い時も、両方を経験されたのですね。

 

三嶋一輝  ええ。その試練に苦しんだり、時には楽しんだりしながら乗り越えていくことこそが、プロならではの経験だと思っています。僕はベイスターズに入って、1年目からそこそこ投げることができて、球団からの大きな期待を感じましたが、その後はその期待を裏切ってしまう時期もありました。結果が出ている時は周りにたくさんの人が集まってくるけれど、結果が出なくなると急に人が離れていく。そういうプロの厳しい現実も肌で感じてきました。

 

――そういう厳しい世界だからこそ、伝えられることがあるということですね。

 

三嶋一輝  そうなんです。昔の僕は、どこか野球に対して中途半端に取り組んでいた時期もありました。でも、さまざまな挫折を経験して、「野球をするために何ができるか」を本気で考えるようになったんです。
難病との闘いも含めて、振り返ると本当に長い時間だったなと思います。毎日毎日、「どうすれば結果を出せるか」だけをひたすら考え続けた13年間でした。その中で得た気づきや経験を、皆さんに伝えていけたらと思っています。

 

――解説のお仕事をする上で、特に大切にされているこだわりや独自の視点はありますか?

 

三嶋一輝  僕の解説はベイスターズの試合が多いので、一緒にプレーしていた後輩たちのことはよく知っています。プロである以上、みんな当然「結果を出したい」と思ってプレーしているわけですが、僕は結果そのものよりも、その選手がどのような表情や思いでプレーしているかに注目しています。「この選手はこういう思いでマウンドに上がっているはずです」というような、人間味のある、選手の気持ちを代弁するような解説を心がけています。

 

――今後、野球を通じてさらに挑戦してみたいことや、目標はありますか?

 

三嶋一輝  具体的なものはまだないのですが、ずっと野球には携わっていきたいと思っています。僕は小さい頃に野球を始めて、野球を通じてたくさんの素晴らしい人たちに出会ってきました。自分の野球人生を振り返って、長くて濃い時間だったなと思えることほど、幸せなことはないと思っています。

 

――その幸せな経験を、今度は伝えていく側に回るのですね。

 

三嶋一輝  そうですね。よく「野球界への恩返し」と言いますが、恩返しというよりも、自分が感じた思いを伝えていきたいんです。プロならではの視点から見る野球の奥深さや、辛さ、そして楽しさ。もちろん、プロになる前のアマチュア時代の泥臭い考え方も含めてです。
今はSNSや動画、さらにはAIなど、助けてくれる便利なツールがたくさんありますよね。でもその中で、自分で考えて壁にぶつかって克服していく力というのが、実は一番大事だということを、僕なりの言葉で発信し続けていきたいです。

 

周りに笑われても「プロ野球選手になる」という夢を信じ抜いた

――ここからは、三嶋さんと野球との出会い、そしてプロを目指した原点についてお聞きします。小学生の頃はサッカー少年で、中学生から本格的に野球を始められたと伺っています。最初はどのようなきっかけだったのでしょうか?

 

三嶋一輝  小学生の時はサッカーとピアノをメインでやっていて、野球は、公園で友達と遊ぶ程度だったんです。でも、小学6年生の夏に地元の少年野球チームに誘われて、初めてちゃんとしたユニフォームを着て、本格的な野球を経験させてもらいました。
最初はとにかく難しかった。公園の野球とは全然違って、ルールがたくさんあるじゃないですか。プレートの正しい踏み方とか、ストライクゾーンの判定とか、とにかく細かい。そして何より、ピッチャーが投げてくるボールをバットで打つという動作が、信じられないくらい難しかった。でも、失敗が多いスポーツだからこそ、たまに成功した時の興奮、快感がたまらなくて、一気に引き込まれました。

 

――そこで一気に野球にのめり込んだのですね。

 

三嶋一輝  ……と言いたいところなんですが、実はその少年野球チームには、冬になったら行かなくなってしまったんですよ。寒いから嫌で(笑)。それくらい、小学生らしい中途半端な気持ちだったんです。でも、一度味わった野球の難しさと面白さは心に残っていて。それに、ずっと野球をやっていた父が、僕が野球をするとすごく喜んでくれたんです。家族のそういう姿を見て、中学生になったら本格的に野球部に入ろうと決意しました。

 

――サッカーから野球へ進路を変える際、周囲の反応はどうでしたか?

 

三嶋一輝  実は僕、サッカーも結構いいところまでいっていて、ユースチームに呼ばれるほどだったんです。だから、サッカーを辞めて野球をやると言った時、サッカーの監督が泣いちゃったんですよ。「お前は中学でもっと上を狙えるのに、なんで辞めるんだ!」って。僕は「どうしても野球がやりたいんです」って押し切ったんですけどね。

 

――サッカーで順調だったのに、あえて難しい野球を選んだのはなぜでしょうか?

 

三嶋一輝  もちろんサッカーも魅力的でしたが、僕にとって野球というスポーツがそれ以上に魅力的だったんです。野球って、投げる、走る、打つ、と多様な要素があるじゃないですか。毎日ボールを投げていると、自分の肩が強くなっていくのがわかる。バットを振れば、打球がどんどん遠くまで飛ぶようになる。やればやるだけ、自分の成長が目に見えてわかるのがすごく楽しかったんです。あとは、野球を始めるのが周りより遅かった分、逆に新鮮で没頭できたのかもしれません。難しいスポーツだと思ったからこそ、挑戦しがいがあると感じたんです。

 

――高校は福岡工業高校に進学され、チームを初の九州大会優勝に導きました。その経験はどのような影響を与えていますか?

 

三嶋一輝  僕は中学から本格的に野球を始めたので、高校進学の時はスポーツ推薦の声がかかりませんでした。それで一般受験で福岡工業高校に入学したんです。でも、僕の中ではやるからにはとことん上まで行きたいという思いがあり、中学の頃からずっと「プロ野球選手になりたい」と公言していました。ただ、当時の僕がそれを言っても、誰一人として信じてくれなかった。親でさえも信じてくれませんでした。

 

――工業高校からプロ野球選手を目指すというのは、かなり珍しかったのではないですか?

 

三嶋一輝  そうなんです。工業高校って基本的に就職を目指す学校なので、毎年、進路希望調査の紙を提出するんです。みんな「一級建築士になりたい」とか「電気工事の資格を取りたい」とか現実的なことを書く中で、僕だけ1年生の時からずっと第一希望に「プロ野球選手」って書き続けました。担任の先生に呼び出されて「ふざけないで真面目に書け」って叱られるんですよ。僕は「大真面目です!」って言い返していました。

 

――周りの反応に対して、悔しい思いなどはありましたか?

 

三嶋一輝  絶対にプロになって見返してやる! って、その思いだけで練習していました。高校に入ってからも小柄でしたし、周りにプロに行くような先輩もいませんでした。一人の友達だけはずっと信じてくれていたんですけどね。誰よりも野球が上手くなりたいという気持ちで、3年間ひたすら練習を積み重ねました。その結果、3年生の時に福岡工業が九州大会初優勝を果たして、甲子園に一番近いところまで行くことができたんです。

 

――結果を出したことで、周囲の反応も変わったのではないですか?

 

三嶋一輝  手のひら返しですよ(笑)。スカウトの人が学校に来るようになったら、学校中が大騒ぎになって。後に僕がプロ入りした時、あの進路調査で叱ってきた先生が「あの時はごめんな」って言ってくれて、痛快でしたね。小さい頃は「プロ野球選手になりたい」って誰でも言いますが、中学、高校と上がるにつれて、現実を見てみんな言わなくなってしまう。でも僕は、言い続けることで自分にプレッシャーをかけて、退路を断つようなやり方をしてきたんだと思います。

 

――身長175センチと、決して恵まれた体格ではなかったと思いますが、勝負するために意識していたことは何ですか?

 

三嶋一輝  ピッチャーというポジションは、マウンドのど真ん中で全員から注目される場所です。だから、今までやってきた努力を全部見てくれ! という気持ちで投げていました。マウンドは自分を表現する場所だと思っていたので、強気な姿勢だけは誰にも負けないように意識していましたね。

 

――その後、東京六大学野球の強豪・法政大学へ進学されました。全国からプロに行くような、エリートたちが集まる超名門ですね。

 

三嶋一輝  みんな僕のことなんか、田舎から来た小柄なピッチャーだと軽く見ていたと思うんです。だから、最初のキャッチボールから全力で投げ込みました。周りがざわついて、監督がわざわざ見に来て「今度、投げてみるか」と声をかけてくれました。「計算通り!」って、心の中でガッツポーズしましたね(笑)。その1年の春に、いきなり日本一を経験させてもらいました。

 

――2012年のドラフト会議で、横浜DeNAベイスターズから2位指名を受け、見事プロの世界へ飛び込みました。プロ入り後も順調だったのでしょうか?

 

三嶋一輝  1年目は大学に入った時と同じ考えで、先輩ピッチャーたちを見ても、心の底では絶対に自分の方がやれると強気で臨んでいました。プロは結果を出せばいいんだろ、という感覚のまま進んで、ルーキーイヤーにオールスターゲームにも出場し、侍ジャパンにも選ばれました。
でも、それが逆に良くなかったんです。当時のベイスターズの若手でそこまで結果を出した選手があまりいなかったので、チヤホヤされ方が尋常じゃなくて。たくさんお給料も入るようになり、1年目のオフは完全に天狗になっていました。夜遅くまで遊びに行ったり、睡眠を削ったり、プロとしての自覚が足りないオフの過ごし方をしてしまったんです。

 

――その影響は、2年目に出たのでしょうか?

 

三嶋一輝  見事に出ました。2年目は球団から期待されて開幕投手に大抜擢されたんですが、試合を壊してしまって。1年目にそこそこ結果が出たことで、心のどこかで「プロってこんなもんか」と甘く見ていたんですね。でも、そんな甘い世界ではありませんでした。そこから5年目くらいまで結果も出ず、2軍でくすぶっていました。クビになるかもしれないという危機感すらどこか麻痺していたような、中途半端な時期でした。

 

――先発として思うように結果が出ない苦しい時期を、どうやって乗り越えたのですか?

 

三嶋一輝  正直に言うと、何年も乗り越えられずにズルズルと過ごしてしまいました。2017年には、ついにプロに入って初めて「0勝」という結果に終わってしまって、いよいよ野球人生も終わりかもしれないと思いました。でも、そのタイミングで僕にとって人生最大の転機が訪れたんです。それが妻との結婚です。
妻は野球のことをほとんど知らない人で、だからこそ僕の肩書きに左右されず、「ちゃんとやった方がいいんじゃないの?」と真っ直ぐに助言してくれました。彼女と一緒に生きていくことになり、子供も生まれて、このままじゃダメだ、自分を変えなきゃいけない、と心底思えたんです。

 

――ご家族の存在が、大きな起爆剤になったのですね。

 

三嶋一輝  はい。そこで僕は、自ら監督やコーチのところへ行き、「先発ではなく、中継ぎをやらせてください」と直訴しました。僕みたいなだらしない人間は、毎日登板の可能性がある中継ぎというポジションで、気を抜く暇もなく全力で野球と向き合わないとダメだと思ったんです。いつ肩や肘が壊れてもいいから、毎日死ぬ気で投げるという思いで、2018年からは中継ぎとして新たなスタートを切りました。
中継ぎに転向してからは言い訳や妥協を一切なくしました。走るメニューも、キャッチボールも、どんな練習でも毎日全力で打ち込みました。原点に戻って、ただひたすらに目の前の課題に向き合い続けました。

 

――1つの球団に13年間在籍されたからこそ感じる、特別な思いはありますか?

 

三嶋一輝  僕は野球選手として大記録を残したわけではありませんが、経験の豊富さだけは誰にも負けないと思っています。先発も中継ぎも抑えも経験し、周りからの大きな期待を背負い、そして裏切り、難病にもなりました。
若い頃の僕はだらしなくて、コーチから叱られることもたくさんありました。当時は反発していましたが、年齢を重ねるごとに感謝の気持ちが湧いてきました。本気でぶつかってくれた指導者の方々の言葉は、今でも僕の大切な財産です。

 

国指定の難病「黄色靭帯骨化症」との闘いと奇跡の復帰

――2022年、三嶋さんは国指定の難病である「黄色靭帯骨化症」を発症され、胸椎の手術を受けられました。最初に診断を受けた時、どのようなお気持ちでしたか?

 

三嶋一輝  最初は意味がわかりませんでした。僕はプロに入ってから肩や肘の大きなケガとは無縁で、頑丈なのが取り柄でしたから。ベイスターズの選手でこの病気を発症したのも僕が初めてだったので、何が起きているのか理解できなかったんです。最初はただのひどい腰痛かヘルニアだろうと思っていました。でも、だんだんと足に力が入らなくなってきて、普通に歩くことすらしんどくなっていったんです。

 

――それでも、しばらくは無理をして投げ続けていたのですね。

 

三嶋一輝  ちょうどその頃、僕はチームのクローザー(抑え)という大事なポジションを掴みかけていました。ここでマウンドを降りたら、誰かにチャンスが渡って自分の居場所がなくなるという恐怖がありました。だから、痛み止めを何錠も飲んで、吐き気を催しながら無理やり投げていました。車から降りる時に足に力が入らなくて捻挫したり、もうボロボロの状態でしたね。それが2022年の1月から5月くらいまで続きました。

 

――限界を感じたのはいつだったのでしょうか?

 

三嶋一輝  5月7日、僕の誕生日でした。もう立っていることもできず、排泄障害まで出てきてしまって。さすがにこれはおかしいと、もう一度大きな病院で背骨のレントゲンやMRIを撮り直してもらったんです。その画像を見たお医者さんは絶句していました。「三嶋さん、これは野球どころの話じゃないですよ。骨化で神経が圧迫されているのに、よく今まで歩けていましたね。今すぐ練習をやめてください」と言われました。

 

――野球ができなくなるかもしれないという絶望感はありましたか?

 

三嶋一輝  絶望感よりは、早くこの痛みと苦しさから解放されたいという思いの方が強かったんです。好きな野球をやればやるほどしんどくなる状態だったので、正直、早く手術してくれと思っていました。素晴らしい先生に出会って、従来の手術とは違う新しい術式(後に『MISHIMA手術』と呼ばれるもの)で手術をしていただきました。
手術から目覚めた時、あれだけ痛かった足の痺れが和らいで、ベッドの上で左足が動いたんです。「これならまた野球ができるかもしれない!」と、希望の光が差した瞬間でした。術前の、あの地獄のような毎日に比べたら、リハビリなんて苦じゃなかったですね。

 

――どのあたりから「復帰できるぞ」という確信に変わりましたか?

 

三嶋一輝  術後、精神的にも肉体的にも歩くのが楽になった段階で「絶対にいける」と確信しました。それに、僕がこの病気を公表して大きなニュースになったことで、僕の中にある種の使命感が芽生えたんです。スポーツ選手はどうしても腰痛ばかりを疑いがちですが、実は胸椎の黄色靭帯骨化症で神経が圧迫されているケースがあります。
僕がここで前例のないリハビリを乗り越えて、再びマウンドで投げられる姿を見せれば、これから同じ病気で苦しむ人たちの希望になれる。そう思ったら、モチベーションが一気に上がって、リハビリにも意欲的に取り組むことができました。

 

――復帰までの道のりで、一番支えになったものは何ですか?

 

三嶋一輝  やっぱり、ファンの皆さんの存在です。手術を乗り越え、長いリハビリを経てついに復帰した時、スタジアムに轟いた割れんばかりの大歓声は、一生忘れることはありません。
それまでの僕はどこかで、「結果を出せば周りはついてくるだろう」とドライに考えていた部分がありました。でも、あの歓声を聞いて、たくさんの人に愛され、応援されて野球をやっていたんだと痛感しました。病気になったことで、ファンの皆さんのありがたさに気づくことができたんです。

 

――三嶋さんは現在、講演会の講師として「ピンチをチャンスに変える再起思考法」などをテーマにお話をされています。逆境に立たされた時、最も大切になる考え方を教えてください。

 

三嶋一輝  僕はプロ野球生活の中で、本当に逆境だらけでした。でも、逆境や試練、壁にぶつかった時、僕は無理に乗り越えようとは考えないようにしているんです。乗り越えるのではなく、真っ直ぐに向き合うことが大事だと思っています。
例えば、僕が難病になった時、この病気を克服してやる! と力むのではなく、なぜ今、自分にこの試練が与えられたのかを考えました。野球人生の中で、期待を裏切って人が離れていった時も、やっとクローザーになれたのに難病になった時も、それはすべて、今の自分にとって見つめ直す必要があるから、この試練が来ているんだと捉えるようにしたんです。

 

――試練を前向きに受け入れたのですね。

 

三嶋一輝  そうです。自分に起きる苦労や困難は決して不幸なことではなく、経験しなければいけないことなんです。試練と向き合って、自分なりに考えて、どうすればいいか答えを探す。その過程で自分自身と対話することは成長につながって、実はすごく大切な時間なんじゃないかと思うんです。だから、逆境が来ても逃げずに、本気で自分に起きている事象と向き合ってほしいです。

 

――講演会を通じて、参加者の方々に一番届けたいメッセージは何でしょうか?

 

三嶋一輝  僕は決してレジェンドと呼ばれるようなスーパースターではありませんが、小さい頃からプロ野球選手になるという夢を言い続け、夢を叶えて35歳までプレーしました。僕が一番誇りに思っているのは、「自分が自分のことを一番信じ抜いた」ということです。どんなに辛い経験も、すべて僕にしかない財産です。だからこそ、皆さんには自分自身としっかり向き合うこと、そして自分のことを一番評価して、信じてあげることの大切さを伝えたいです。

 

――企業の方や学校の生徒さんなど、どのような方に聞いてほしいですか?

 

三嶋一輝  幅広い層の方々に聞いていただきたいですね。ビジネスの世界で闘っている社会人の方々も、夢を追いかける子供たちも、「自分のことを信じないと始まらない」という点では共通していると思います。僕はスポーツという世界にすべてを懸けて生きてきましたが、そこで培った諦めない心や、逆境との向き合い方は、必ず日常や仕事の中にも通じるものがあるはずです。
周りがどう評価しようと、自分自身が自分の可能性を信じてあげることがすべてのスタートです。僕の経験談を聞いて、明日からまた自分の人生と前向きに向き合うきっかけにしていただけたら、こんなに嬉しいことはありません。

 

 

 

 

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