荻原次晴 講演会講師インタビュー

Speakers.jp Interview Vol.18 兄・健司氏に間違えられて、イヤな思いもしたが、それがあったからこそ良かったのだと思える。まさに「すべては良きことのために起こる」。 スポーツキャスター 荻原次晴

 子どものころから、周囲に“けんつん”と呼ばれてきた一卵性双生児の荻原健司・次晴兄弟。しかし、兄・健司氏が、冬季オリンピックのスキー・ノルディック複合競技で、金メダリストになってから、「兄のニセモノ」と揶揄されることになった弟・次晴氏。 「ノルディック複合の荻原には、健司もいれば、次晴もいる」
 日本中の人に、荻原次晴を認知してもらうために、強い決意で臨んだ長野オリンピック。そして、個人6位、団体5位と、入賞を果たす。
 やるべきことはやったという達成感を胸に、現役競技選手を引退。そこからが荻原次晴氏ならではの活躍がはじまる。
今や、スポーツキャスターとして、スキーを知らない人たちにもその明るいキャラクターは親しまれ、今度は、健司氏が次晴氏に間違われるほどに。
 荻原次晴氏がオリジナルのキャラクターとして認知されるまでの道のりは、まさに苦悩の連続。しかし、それを乗り越えたことで、自分を取り戻し、自分ならではの道を拓いた。 そんな次晴氏に、アスリートとしての強さ、目の前の壁をぶち破る方法、第二の人生をどう歩んでいくか、そして自分のあるべき姿の確立について伺った。

(text:増田聖祥、photo:小山幸彦)

兄に間違われ、サインを断ると悪口も

小さいことから、兄弟としてそれぞれの自覚はありましたか
荻原次晴写真

荻原:健司は親から、お前はお兄さんなんだからしっかりしろと言われ続けたことで、兄らしくなっていったのだと思います。
 私は、要領よく立ち回るほうで(笑)。兄弟げんかをしても、仲裁に入った母が、健司に対して「お前がお兄さんなんだから、次晴に譲ってやれ」みたいにいうので、私は都合が悪くなると泣けばいいと思っていましたし(笑)
 スキーにしても、始めた当初は私のほうが成績はよく、健司は後からついてきてコツコツ努力を重ねて結果を出していました。
私は、ある程度まで達成すると、ほかのことに興味が出てきてしまって(笑)

しかし、健司氏が1992年のアルベールビルオリンピックで金メダルに輝き、周囲の目が一変しましたね
荻原次晴写真

荻原:大学4年生の冬に、健司がアルベールビルオリンピックの出場選手に選ばれ、しかも金メダルを獲得して帰国したことは、本当に驚きました。しかし、健司はすごいことをしたかもしれないが、マイナーなノルディック複合という競技でメダルをとったぐらいでは、国民的ヒーローにはならないだろうと思っていたんです。
 しかし、健司が表彰台でニコニコしている姿にメディアが注目し「新しいタイプのヒーローが登場した」として、一躍時の人になったのです。
 双子だから、ひょっとしたら健司に間違われるのではと、ある程度の予想はしていましたが、だんだん「そっくりさんだ」「ニセモノだ」とか言われはじめ、健司ではないので当然サインや写真撮影を断ると、「メダルを取ったぐらいでいい気になるな」と悪口を言われたこともあり、ショックでした。

 

 

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長野五輪で初めて自分を日本中の皆さんに分かってもらえた

こうなれば、自分も健司氏と一緒に表彰台に立つことで、「次晴は健司のそっくりさんでもニセモノでもない」ことを証明しようと一念発起しますね。
荻原次晴写真

荻原:冬季オリンピックの開催時期の変更もあり、1994年のリレハンメルオリンピックは、アルベールビルオリンピックの2年後になったため、集中してトレーニングにあたり、成績もよかったのですが、残念ながら選考から漏れてしまいました。
 しかし、オリンピックで2人一緒に表彰台に上ることを諦めたわけではなく、4年後の長野オリンピックを目指して努力を重ねていました。その間の1995年1月、ワールドカップ・リベレツで、健司とワンツーフィニッシュを果たし、「荻原健司には双子の弟がいるのか」と認知され、少し気持ちが楽になりました。そして、同年3月の世界選手権・サンダーベイ大会では、健司とともに団体で金メダルに輝きます。
 それでも、イベントなどに招待されると「健司さんの双子の弟さんもお見えです」という紹介のされ方が多いんです。やはり、国民の誰もが注目するオリンピックで表彰されることが、荻原次晴を正式に認知させることになるとして、長野オリンピックへ出場の決意を新たにするのです。

長野オリンピックは、いろいろな思いを秘めて臨んだといいますが。

荻原:長野オリンピック直前のコンディションは最悪でしたが、これを乗り切るのは、自分の気持ち次第だと。最初で最後のチャンスにおいて、守りに入るような気持ちで臨むのはよくない。とにかく攻めでいこう、転んで追突して死んでもいいという気持ちで本番に臨みました。でも、それがよかったんですね。結果として、個人6位、団体5位と、入賞を果たします。
 大会を振り返って、「楽しかった」という感想を述べましたが、死ぬ気で戦ったから言えたのだと思います。ウキウキワクワクという楽しさではなく、できる限りの力を出し切って、一つの悔いもないから「楽しかった」と言えたんです。
 オリンピックの舞台に上がって「あっちが健司で、こっちが次晴か」と、日本中のみなさんに分かってもらえればよかった。入賞し、日本中の人に見てもらえた。だから、競技者としてやるべきことはすべてやり尽くしたと思ったので、引退したのです。

ウィンタースポーツ代表のキャスターへ

引退してから、スポーツキャスターとして、第二の人生がスタートします。グルメ番組や旅番組で活躍するなど、スキー以外の分野も、そつなくこなしていらっしゃいますね
荻原次晴写真

荻原:当時ある方から、「スキーヤー出身でメディアに出ている人間はいない。長野オリンピックでウインタースポーツが日本人に親しみやすくなったので、ウインタースポーツを語り長野オリンピックを語りつぐ人になれ」といわれ、ならば、やってみようと。
 夕方ニュース番組や朝の情報番組において、スポーツコーナーを担当させてもらい、それはまさに、言いたいことを短くまとめて正確に伝える実践訓練の毎日でした。
 そして、スポーツに詳しくない方にも分かるように、カタカナや専門用語を分かりやすく置き換え、例え話をするなどしてトークスキルをアップし、アナウンススクールにも通い、発声の練習もしました。
 大学時代は、音楽やファッションなど、スキー以外のことにも興味を持っていました。そのため、スキーでは健司に遅れを取ることになりますけれども、多趣味なところが、現在の仕事に生きているなと思います。
 そして、今では、健司のほうが、どこにいっても「荻原次晴さんですか?」と尋ねられるようになってしまったようです(笑)。現役選手時代に、私が間違えられた気持ちを、理解してくれるようになったのではないでしょうか。

劣等感をバネに行動を起こすことが成功への分かれ道

最後に、講演で伝えたいこと、自分の良いところを見失っている人にアドバイスをお願いします。
荻原次晴写真

荻原:健司に間違えられてイヤな思いもしましたが、私がオリンピックの代表に選ばれたのは、健司に強い劣等感を感じたからです。それがあったから良かったのです。
 劣等感から逃げずに、それをバネにして行動を起こすか起こさないかが分かれ道だと思います。「解き放たれて、何も悩みがない」という状態にある人が、一番可愛そうです。
 そして、自分を見失わないようにするには、「いつかどうにかなる。そのためにはどうしたらよいのか」ということを考え続けることですね。 また、「本気で○○する」という言葉を言うのは簡単ですが、その本気が“本物”なのかを常に自分に問いかけることも大切です。そうでなければ、私も、長野オリンピックで「やるべきことはやった。楽しかった」とはいえなかったと思います。
 「すべては良きことのために起こる」と思います。会社で上司に叱られ悔しい思いをしても、後々それが良かったと思えることはたくさんあります。人間は、そういうことを繰り返して生きていることを自覚し、日々を積み重ねていきましょう。

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