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平野真理子 講演会講師インタビュー

元教員として特別支援学級の担任を務めた経験や、3児の母としての子育て、そしてオリンピアン・平野美宇選手の母としても知られる平野真理子さん。現在は山梨県で卓球教室「平野卓球センター」を運営し、年齢や障がいの有無を問わず誰もが集える“心のバリアフリー”な空間づくりに尽力しています。講演では、特別支援教育の実体験や発達障がいを持つ子どもとの向き合い方、そして「自分は自分でいい」という“美宇は、みう。”の精神を通じて、多様性と共生の大切さを伝えています。保護者・教員・子どもが一緒に聴ける講演や講演後の “座談会” も好評で、多くの気づき与えると共に共感を呼んでいます。今回は、講演依頼のSpeakersに新しく講師として登録された平野真理子さんに講演での想いや教育・子育てへの信念、今後の展望などを伺った。

(text:高田晶子、photo:遠藤貴也)

オリンピアンの卓球選手・平野美宇の母「卓球選手としては大したことないんです(笑)」筑波大卒、教員の道へ

――卓球選手の平野美宇さんのお母様としても有名な平野真理子さんですが、ご自身の経歴を簡単にお教えください。

 

平野真理子 インタビュー風景平野真理子  私は幼少期からクラブチームなどで卓球をやっていたのではなく、中学校の部活で卓球を始めました。高校も卓球部でしたが進学校だったので、勉強も忙しく、普通に大学受験をして、筑波大学に入学しました。高校時代は、静岡県の東部地区で優勝して、県大会ではベスト8が最高成績です。私はオリンピックどころか、全国大会も行ったことはありません。卓球選手としては、全然大したことないんですよ。私自身の想定では、高校卒業後は地元の教育大学に進学して、小学校の教員免許を取得して、地元の小学校の教師になるルートで進もうと考えていました。しかし、高校の卓球部の顧問で筑波大学出身の先生から、「静岡県で生まれ育って、静岡県の大学に行って、静岡県で勤めるなら、静岡県以外の人と触れ合わずに生きていくことになる。知らない間に思考の幅が狭くなるかもしれないから、全国のいろいろな土地で生きてきた人たちに出会って、いろいろな考え方を知り、広い視野を持ったほうがいい。井の中の蛙になっちゃいけない。広い視野を持った教師となって、地元に戻ってきてほしい」と背中を押されて、筑波大学に進学したのです。
プロフィールには「筑波大学の卓球部主将」とあるので、それだけ聞くと卓球エリートだと思われるかもしれません。ですが、実はたまたま私の学年に女子部員がまったくいなくて、必然的にやらざるを得なかっただけなんです(笑)。

 

――筑波大学を卒業後、地元の静岡に戻って教員の道に。夢を叶えられたのですね。

 

平野真理子  学校の教師は、小さい頃からの夢でした。幼少期の私は遊んでいる同級生たちに「私も仲間に入れて」と言えず、モジモジしているような子どもでした。「入れて」と言えないことを悟られるのも恥ずかしくて、一人でも平気な振りをしていました。そのことに気付いてくれた小学校4年生の時の担任の先生が、ドッチボールなどをして遊んでいる場で「おいで、一緒にやろう」と誘ってくれました。それ以降、私は学校が楽しくなったし、先生が声を掛けてくれたことに心底感謝しました。子どもの心の奥の部分を見てあげられて、そこに気づいてあげて、何らかの手立てができる、寄り添うことができる、そんな先生になりたいと思うようになりました。
筑波大学に運良く受かったのですが、筑波大学では小学校の教員免許が取れなかったのです。中学校と高校の教員免許しか取れないので、ひとまずは中学体育の教員免許を取り、地元の静岡県での採用試験を受けました。ただ、中学校の女性の体育教師はひとつの学校に一人しかいない。ですから、あまり需要がない。そのため筑波大学卒業後、肢体不自由児の特別支援学校に3年間の研修交流として正式採用されました。

小学校の教員免許が取れない筑波大学に行ったことで、少し遠回りはしたけれど、特別支援学校での3年間が、私の人生のとても大きな転機になりました。今まで自分はたくさんのことを知ったつもりでいたけれど、今の社会が、障がいのある方やそのご家族にとって、どれだけ生きづらい社会で、物理的にも心理的にも見えない高い壁があることも知りました。それと同時に、過去の自分の心の中に、悪気も悪意もない“無関心”や無意識の区別が存在していたことに気が付いて、ものすごくショックを受けたのです。差別や見えない壁がいつまでもこの世の中からなくならない。そのすべての根源は「知らない」ということです。この経験を機に、私には「障がいのある方と社会との懸け橋になる」という新たな夢が生まれました。

 

――3年間の特別支援学校の後には、どのような教師遍歴を歩むのですか?

 

平野真理子 インタビュー風景平野真理子  その後母校である中学校に勤務して、通信教育で小学校の教員免許を取り、もともとの夢でもあった小学校の教師にもなりました。中学校では特別支援学級の担任になり、私は通常学級と特別支援学級の懸け橋になろうと思い、両学級のふれあいタイムを作ったり、通常学級の先生方に自分のクラスの子どもたちのことをたくさん話して、興味を持ってもらうように努力しました。校長先生も全校集会のたびに特別支援学級のことを話してくださり、学校全体が特別支援学級のことを知るようになりました。以前は職員会議の資料には特別支援学級について書かれていなかったのですが、どの資料にも書かれるようになり、無関心というものが消えていき、意識の中にあって当然という状況にまでなったと思います。学校の教師をやりながら、「やっぱり知ってもらうことが一番大切なことだ」と実感しました。

 

――それから12年間の教員生活を終えて、山梨に移住されるのですね。

 

平野真理子  中学校と小学校に勤めた7年間は、学校という組織の中で、自分が懸け橋としての活動を目一杯やりました。忙しかったけれど、本当に充実していて、教師を辞めるなんて考えたこともなかったのですが、教員生活の間に結婚をしました。大学時代の同級生の夫とは、それまで遠距離恋愛、遠距離結婚だったのですが、夫が地元の山梨県に就職が決まったことで、一緒に山梨県で暮らすことに。教員は都道府県別の採用になるので、静岡県での教員を退職。山梨県でも教員を続けようかどうか悩んだのですが、その時には長女の美宇も2歳になっていて、次女の世和も妊娠中だったので、自分の子どものことにも100%力を注ぎたいと思いつつ、どうしようかなと思い悩んでいたのです。

 

夫の地元の山梨県で、平野卓球センターを設立


――卓球教室を開くに至った経緯を教えてください。

 

平野真理子 インタビュー風景平野真理子  夫の実家に卓球台が1台ありました。ちょうど「卓球を教えてほしい」という小学生が3人ほどいて、「じゃあここで私が卓球教室を開こう!」と思い立ったのです。教える内容は卓球ですが、私にとってツールは卓球でも英語でも算数でも何でも良かった。子どもたちの成長に関わる仕事ならば何でも良いと思っていたので、2003年に卓球教室をスタートしたのです。
最初は実家の1室を間借りしていたのですが、あれよあれよという間に口コミで、生徒が増えていって、あっという間に30人に。手狭になったので、2005年に現所在地に平野卓球センターを設立しました。今は移転してちょうど20周年です。卓球台は6台あります。下は幼稚園生、上は86歳の方もいて、登録者数は100人くらいいます。年齢も性別も国籍も、障がいのあるなしも関係なく、いろいろな人が来てくださっています。今日も車椅子の方に1時間レッスンをしてから、東京に来たんですよ。

 

――平野卓球センターの運営に当たって大切にされている理念や工夫などは?

 

平野真理子  私は「美宇は、みう。」という精神を大切にしています。これは、「自分は自分、人は人」という意味で、「誰と比べることなく、ありのままの自分でいいんだよ」ということです。ですから、卓球での目標も人それぞれで、毎日長い時間練習に励んで、全国大会を目指している子もいれば、毎日練習には来ているけれど大会には一切出ない子もいますし、月に1回練習に来るかどうかという子もいます。私たち指導者側も「みんな違って、みんないいんだよ」と子どもたちの違いを認めていて、その空気が浸透しています。自分が来たい時に来て、自分のペースでやりたい時にやる。でも、来た時には一生懸命卓球をやる。それさえ出来れば、いつでも誰でも来て良い場所になっています。私たち指導者側の行動や発言が平野卓球センターの空気を作る側面があるということを、しっかり自覚するようにしています。

障がいのある子もない子も一緒にやるのが当たり前で自然なこと、お互い様なんだということを浸透させていきたいと思っています。

 

――指導を通じて、印象に残っているエピソードがあれば、教えてください。

 

平野真理子 インタビュー風景平野真理子  たくさんあるのですが、「美宇は、みう。」という言葉に出会えた話をしたいと思います。美宇が5歳の時、当時はメディアが「(福原)愛ちゃん二世」「未来の愛ちゃん」を探している時期でした。全国に愛ちゃん二世と呼ばれる子はたくさんいましたが、その中でも恐らく美宇が一番報道されていたように思います。5歳の美宇はオリンピックを目指していたわけではなく、「“キティ屋さん(サンリオショップの店員)”になりたい」と言っていたのです。しかし、メディアでは「第二の愛ちゃん、夢はオリンピックで金メダル」と報道されていました。そこで、美宇は「美宇はそんなこと言っていないのに、勝手に金メダルって書かれている。美宇のことなのに、愛ちゃんって書いてある。なんで美宇って書いてくれないの?」と言うので、私は「平野美宇って誰も知らないからだよ。みんなは愛ちゃんなら知っているでしょ?愛ちゃんみたいにすごく強くなれば、美宇って書いてもらえるんじゃない?」と言い聞かせていました。そんな折に、定期的に来てくれる顔なじみのテレビのスタッフさんが、美宇に「愛ちゃんみたいになりたい?」と聞いたことがありました。慣れ親しんでいたいつもの人だということもあって、美宇はすごく不機嫌な顔をして「美宇は、みう。」と答えたんです。
この言葉を聞いた時に、ハッとしました。

本来親として一番大切にしなくてはいけないこと、美宇のやり方やペースで、美宇は美宇らしく生きていくことを再認識しなきゃと思わされた一言だったのです。それは指導者としても今に繋がっていて、「その子はその子」と個性や本人の気持ちを尊重しようと思ったきっかけにもなった大切な言葉です。

 

――この話にリンクしているかと思うのですが、指導者として気が付いたことはありますか?

 

平野真理子  昨年6月に、初めて車椅子の方が平野卓球センターに来てくださいました。私としては障がいのある方もない方も受け入れる卓球場にしたいという気持ちはあったのですが、恥ずかしいことにうちの駐車場が砂利で、入口には車椅子では上がれない高い段差もあるんです……。連絡をくださって、私は「もちろんいいですよ!」と答えたのに、物理的にまったくバリアフリーではなかったことに改めて気が付きました。
その時に、一般教室の生徒さんとのグループLINEを作って、彼が来たい時にお手伝いをしてくれる方が来てもらうようにするようにしました。以降、彼がLINEで「来たい」と連絡をくれた時には、誰かしら「僕、行くよ」「もし誰もいないようだったら、今日都合付けられるよ」など、他の生徒さんたちが呼びかけ合って、彼が来たいと言ったのに来られなかった日は一度もありません。私も段差のあるところに手すりをつけるなど、物理的な改善をしていたのですが、彼自身も平野卓球センターに通うごとに機能が改善していって、今では誰の力を借りなくても、手すりを使えば段差を上がれるようになりました。最初の半年間は生徒のみんなが手伝ってくれたからこそ、通えていました。もちろん物理的なバリアフリーも大切なことですが、それよりも心のバリアフリーが大切なんだ。心のバリアフリーさえあれば、どんな困難も解決していく糸口はあるし、素敵な仲間ができて、本当に嬉しかった出来事でした。しかも、彼は競技用の車椅子まで作って、大会にも出場するほどまでになりました。今年の2月には神戸の全国大会にも行きました。準優勝した選手から1ゲーム取ることができました。彼は将来、優勝を目指して頑張っています。

 

現在、中国リーグで戦い続ける卓球選手、長女・美宇 平野真理子さんの右腕でもあるしっかり者、次女・世和 発達障がいを持つ平野家の天真爛漫なアイドル、三女・亜子


――子育てのお話もお聞かせください。3姉妹を育てられている中で、子どもの個性に向き合うために心がけていたことは?

 

平野真理子 インタビュー風景平野真理子  大前提として、親と子が別人格だということを、親が認識することが大切だと思っています。親の思いや、「自分がこうだったから子どももこうだろう」ではなくて、別人格だと認識して子育てしていこうという話は、結婚前から夫ともよく話していました。
親がいなくなった後にも、子どもが自分の人生を自分自身で楽しく切り拓いていけるたくましさ、生きていく力をつけることが自立です。もちろん自分の周りの人に協力してもらいながらでもいい。自分の力でそうした協力を得ることも含めて、子どもがたくましく生きていける力をつけさせるのが、親である私たちの究極の役割だと思っていました。

 

――では、長女の美宇さんについて、アスリートのサポートという面ではいかがでしたか。

 

平野真理子  美宇は普段はおだやかでおとなしい子でしたが、卓球に対しては小さいころからとにかく負けず嫌いでした。美宇は全日本選手権バンビの部で優勝をした小学校1年生の時に、本人の口から初めて「オリンピックで金メダルを獲ることが夢です」と言いました。それ以降、私も美宇は強くなりたいのだと認識して、迷いなくサポートをすることに。ただ、親が引っ張っていくのではなく、美宇の気持ちが先にあって、その願いが叶うだけの練習環境や練習量や練習の質を整えてあげることが親の役割だと思ってきました。ただ、一流のアスリートになる前に、一流の人間になることの方が大切だという考えはずっと変わりません。美宇には口が酸っぱくなるくらい繰り返し言ってきたことの一つに、「美宇が強いから、結果を出しているから優遇されるわけじゃないんだよ。美宇が周りの人に感謝する心があって、一生懸命頑張っているから、みんなが協力したいって思ってくれるんだよ」ということがあります。結果が全てじゃないし、最後まで諦めずに頑張り抜くことが大事なんだと気が付いてほしかったからです。そして、『卓球“は”すごいね』と言われる人になっちゃいけないよ。『卓球“も”すごいね』と言われたら、人間的にも立派で素晴らしいねって言われているのと同じだから、そう言われる人になろうね」とも繰り返し言ってきました。それができているかどうかは、美宇の今後の人生が答えを出してくれるのだと思います。

 

――次女の世和さんは大学を卒業して、仕事をしながら平野卓球センターのサポートもしてくれていると伺いました。

 

平野真理子 インタビュー風景平野真理子  次女の世和は、幼少期からすごく冷静な目を持っていて、全体を俯瞰して周りの人をよく見ている子でした。昔から世和は私の右腕でした。世和が小さい頃から美宇や三女の亜子のことなどで迷った時には相談をしていました。美宇は中学から外へ出てしまいましたが、亜子については「亜子が中学に上がった時に普通学級でいいかな、それとも特別支援学級の方がいいかな」と学校の雰囲気がわかっている世和に相談したり、美宇の遠征のサポートで、私が1週間以上、家を空けてしまう時には、世和が私の代わりに卓球スクールの指示役をしてくれていました。本当に今も昔もしっかり者で、私も頼っていますし、本当に感謝しています。
親として申し訳なかったと思うことは、世和と向き合った時間が本当に短かったということ。オリンピックを目指す美宇と発達障がいを持つ三女の亜子のサポートにかかりきりになってしまうことが多かったのですが、少ない時間でも世和との時間100%の力で向き合うことを心がけていました。世和から「平野卓球センターで仲間と卓球やるのが好き」という言葉を聞いた時は本当に嬉しかったですね。

 

――三女の亜子さんは発達障がいをお持ちだとか。

 

平野真理子  私は教師として10年ほど、障がいのある子どもたちをずっと見てきた経験があるにも関わらず、亜子に障がいがあるとわかった時、大きなショックを受けました。自分の子に障がいがあると認めるまでに少し時間がかかりました。できれば障がいがない方がいい。障がいがあると不幸ではないけれど、とても不便だということを知っていたからです。
私が早く立ち直ることができたのは、やはり教師経験があったからです。早い段階でこの子に合う教育環境を整えてあげれば、すごく伸びる可能性がある、成長する可能性があるということを知っていたため、1日でも早く環境を整えてあげようと思い、小児リハビリのある病院に通い始めました。
小学校に入ってからは、学校との連携をとることに注力しました。「これ以上は無理だな」とか「先生、これはお願いできますか?」「一緒にこれをやってもらえますか?」などと、連絡を密にとりました。中学に上がる時にも、亜子は勉強が好きだから3年後高校普通科進学を希望するかもしれないと考え、中学で支援学級に所属しても高校受験が可能かを校長先生に確認するなど、入る時に出口まで考えるという先を見越した環境づくりをしてきました。

こうして亜子のサポートをしながら育てて、今思うことは、私は亜子のおかげで自分が助けられてきたとすごく感じるんです。亜子は天真爛漫で、その存在だけで、私の心が穏やかになるのです。サポートされているのは、実は私の方そんな経験を多くの人に伝えたいですし、私なりにたくさん工夫してきたことはあるので、具体的な実例やたくさん選択肢があることを多くの人にお教えしたいと思います。

 

「美宇は、みう。」の超バリアフリー精神をタンポポの綿毛のようにどんどん飛ばしていきたい


――講演活動についても教えてください。

 

平野真理子 インタビュー風景平野真理子  講演活動は10年ほど前から始めました。地元山梨県はもちろんですが、一緒に働いていた同僚からの依頼で静岡県の学校に行かせていただいたり、筑波大学時代の仲間からの依頼で全国各地の企業の研修会や教育施設に呼んでいただいたり、メディアで私の事を知ったという方からの依頼もあります。私にとって講演会は、新しい出会いの場でもありますので、毎回楽しみでわくわくしています。

あと、筑波大学時代の先輩や後輩が教員になっていて、全国の学校に呼ばれることもあります。これまではオリンピアンでもある美宇の関係で、「子どもの夢をかなえるためには、どんな子育てをしているのか」という講演依頼が多かったのですが、最近は発達障がいを持つ亜子にも注目していただいて、障がいのある子どもの支援団体などに呼ばれることもすごく増えてきました。

 

――平野さんならではのオリジナリティ溢れる講演会だと伺っています。

 

平野真理子  学校で講演会をする場合は、子どもや先生に進行役をお願いし、対話するように進めます。また子どもたちだけではなく、保護者の方と先生方、みんな一緒に聞いていただくようにお願いしています。

子どもたちが私の話をきっかけに何かに取り組もうとしてくれる時には、大人の力も必要です。子どもたちと保護者の方と先生方が情報共有をしていれば、みんなが同じ温度で同じ方向に向かっていけるので実現しやすくなるのです。
子どもたちと先生は大体帰りの会などで先に退場しますが、その後、保護者の方には残っていただいて、“2次会”を開きます。私も壇上から下りて、車座になって、ざっくばらんに話します。子どもの前では話せない悩みなどがあったら、何でも聞いてね、というスタンスで座談会をするのですが、これがものすごく盛り上がります。それが終わってからも個人的に残ってくださる方もいるのですが、それだけ悩まれている保護者の方がたくさんいらっしゃるのだと思います。私の講演会が問題解決の100%の答えにはならなくても、普段話しにくいことを話すことで心や頭の整理ができたり、親子の関係が変わったり、新しいスタートのきっかけになってくれたりしたらいいなと思っています。

 

――講演会で伝えたいことは?

 

平野真理子 インタビュー風景平野真理子  「美宇は、みう。」の精神、つまり、「自分は自分」「ありのままの自分でいいんだよ」ということが私の講演会の大きなテーマです。自分を大切にできる人は、ありのままの他人の個性も受け入れられると私は思っています。だから、まずはありのままの自分を好きになる、大切にすることを、どんな講演会でも伝えたいと思っています。
そのためにも、できることは自分でやるけれど、できないことは周りにお願いする。それが年齢も性別も障がいも国籍も関係のないバリアフリーな社会に繋がるのではないかと思っていて、それを実現している場所が平野卓球センターです。私の理想は、平野卓球センターで過ごした子どもたちが進学、就職、結婚、転勤などでどこかへ巣立った時に、タンポポの綿毛のように「美宇は、みう。」の超バリアフリーな精神を、巣立った先で出会った誰かに伝えてくれたらいいなと思っているんです。タンポポの綿毛が飛んで行って、どこかで根付いて花開き、また綿毛になって飛んで行くように広がってくれたら――。そのタンポポの大元が平野卓球センターであり、タンポポの綿毛を飛ばす作業の一つが講演活動なんです。

 

――最後に、今後やってみたい活動や展望などをお教えください。

 

平野真理子  これは大きく2つあって、まず1つ目は、いろいろなところで講演活動をしたいということです。例えば、障がいのある方やその親御さんへの講演会なら、当事者だけではなく、それを支える方やサポートする企業の方などにも聞いてほしい。いろいろな案件に関して、それを取り囲む幅広い関係者の人たちが一緒に聞いていただきたいと思っています。
実際に講演会をきっかけに、何か悩みを抱えている方から相談のお手紙をいただいたり、。平野卓球センターに親子そろって遊びに来てくれる方もいます。平野卓球センターが悩んでいる方の駆け込み寺、相談場所になれたらいいなとも思っています。
それから2つ目ですが、実はJICE(一般財団法人日本国際協力センター)という機関から依頼があり、今年2月にアラブ首長国連邦(UAE)に卓球の国際交流に行ってきました。UAEは卓球に関しては発展途上国で、ラケットの持ち方や用具のことなど、基本の一から教えたのですが、参加者の皆さんは本当に楽しそうにやってくださいました。UAEは障がいのある方と健常者が一緒に取り組むスペシャルオリンピックスを推進していて、とても素敵な大会なんです。ちなみに、UAEでは「障がい者」という言葉は使わず、「挑戦者」と表現します。いろいろな困難にも負けずに挑戦していく逞しい人という意味合いが素敵ですよね。

卓球は障がいのあるなし関係なく、いくつからでも、いくつになってもできる生涯スポーツです。卓球を通じた国際交流にもどんどん力を入れていきたいですね。

 

平野真理子 インタビュー風景

 

 

 

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