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千葉真子 講演会講師インタビュー

アトランタ五輪女子1万メートルで5位入賞、世界陸上アテネ大会では銅メダルを獲得するなど、日本女子長距離界の第一線で活躍した千葉真子さん。努力と不屈の精神で世界の舞台に立ち続け、現役引退後はマラソン解説者やランニングクラブ主宰として多方面で活躍されています。高校時代に味わった苦悩や挫折、恩師・小出義雄監督との出会い、そして再び世界陸上でメダルを手にした経験は、どんな逆境にも前向きに挑戦する力の象徴です。講演会では、陸上競技で培った「努力の継続」「心と体の整え方」「夢を叶えるための思考法」を中心に、学生から企業経営者まで幅広い世代に向けて熱いメッセージを届けています。最近では“健康寿命を延ばすための貯筋(ちょきん)”をテーマに、心と体を動かす講演が人気を集めています。今回は、講演依頼のSpeakersで大好評の千葉真子さんに、選手時代の転機と現在の活動、そして講演に込める思いを伺いました。

(text:高田晶子、photo:遠藤貴也)

辛く苦しい時こそ努力することで、底辺から這い上がり アトランタ五輪で世界デビュー

――千葉さんは中学3年生までテニス部だったとのことですが、陸上を始めたきっかけをお教えください。

 

千葉真子 インタビュー千葉真子  テニス部は中学3年生の夏に引退したのですが、その後、駅伝の人数が足りなくて、「ちょっと手伝ってよ」と頼まれて、駅伝をやってみたことが陸上を始めたきっかけです。もともと小学校や中学校のマラソン大会など、走ることは得意だったので、声を掛けられたのだと思います。駅伝の経験によって、もう少し本格的に走ってみたいなと思い、高校入学後は陸上部に入りました。

 

――宇治高校(現在の立命館宇治高校)に進学されますが、陸上強豪校ですよね。

 

千葉真子  宇治高校の陸上部は関西地区を中心に、中学時代に陸上で結果を出している選手たちが集まってくるような強豪校です。私は陸上部に入って1日目で練習に全然ついていけず、「とんだ場違いなところに来てしまったな」と後悔しました……。翌日には全身筋肉痛で、足の裏にマメが5個ぐらいできて、布団から起き上がれなかったくらいハードでした。

 

――どんな練習なのでしょうか?

 

千葉真子  高校生の中長距離選手は800メートルから3000メートル競技のトレーニングをします。駅伝でも一人当たり走る距離は最高6000メートルです。毎日授業後、部活の時間としては3時間くらいなので、そんなに長い距離を走るわけではないのですが、本格的に陸上の練習をやったことがなかったので、最初はかなりしんどかったですね。

 

――めげずに続けられたのはなぜでしょうか。

 

千葉真子 インタビュー千葉真子   自分で行きたいと言って始めたのに、陸上部に入って1日で辞めたいなんて当然言えなかったですね。なんとか続けなければという気持ちと、やはり全国高校駅伝は走りたいという思いがありました。ところが、宇治高校の陸上部には女子の長距離部員だけで30人以上いて、レギュラーメンバーはたったの5人。高校1年生の時には補欠選手にすらなれず、沿道で応援するだけだったのですが、高校2年生の夏以降にグンと記録が伸びて、全国高校駅伝に出場することができました。

 

――かなり努力をなさったということですね。

 

千葉真子   よく講演でも話すのですが、私にとって高校時代の成功体験が人生の礎になっています。底辺からスタートして這い上がってきたので、結果が出た時には自信もつきましたし、こうすればいいんだという一つの答えを得た気がしています。高校1年生の時は自分がレギュラーメンバーになるのは到底無理なことなのかなと思っていました。疲労骨折など怪我もしていたのですが、走れない時にこそ自分はそこで何ができるのかと考え、みんながサボりたくなるような基礎トレーニングのなかで工夫したり、当たり前のことを本気で積み重ね続けられるようなシステム作りをしたりしたおかげで、結果に繋がりました。うまくいかない時ほど腐らず努力をすることが大切だと思います。

 

――1995年に旭化成の陸上部に入られて、その翌年の1996年にはアトランタ五輪に出場。1万メートルで5位になられましたが、初めてのオリンピックはいかがでしたか。

 

千葉真子   急激に記録が伸びて、結果が出たので、オリンピック以前に国際大会の出場経験がありませんでした。いきなりオリンピックに出ることになったのですが、あんなに弱かった私が、まさか夢のオリンピックに出られるなんて凄いなぁ~と心が震える様な感動を味わいました。

翌年の1997年のアテネの世界陸上では1万メートルで銅メダルを獲れましたし、順風満帆だったのですが、その後マラソンに転向してから暗いトンネルの中を彷徨っているような苦難の時期を過ごして、世界の舞台に返り咲くまでに、6年かかりました。

 

1万メートルからマラソンへ転向 小出義雄監督の下、スランプを抜け、 再度世界陸上で銅メダルを獲得

――アテネの世界陸上後、1万メートル競技からマラソンへの転向をされました。

 

千葉真子 インタビュー千葉真子   1万メートルの時は、前日よりも1秒でも遅くなると悔しくなり、日々神経質で自分に厳しく練習に取り組んでいたのですが、4倍もの距離を走るマラソンに転向してその考え方で毎日練習すると、続かないんです。マラソンは上がったり下がったりしながらも、徐々にタイムを上げていき、目標とする3~4か月後の大会にベストな自分を持っていければいい。
こういうことって、一般企業で働く人たちにも当てはまると思うんです。ミスをして上司に怒られると、早く結果を出さなきゃいけないって焦ると思うのですが、もっと大局を見て、自分が成長できればいいのかなと思います。

 

――2001年に小出義雄監督率いる佐倉アスリートクラブに所属されました。小出監督はどのような方だったのでしょうか。

 

千葉真子   メディアでよく報道されていた通りだと思います。明るくて太陽のような名伯楽でした。練習の時も、朝から満面の笑顔で「千葉ちゃん、おはよう!」と元気に声を掛けてくださって、どうせ苦しい練習になるのだから、明るく楽しくできるような場作りをして、環境を整えてくださる監督でした。
とはいえ、練習内容は世界一厳しかったですね。実は高橋尚子さんとずっと一緒に練習をしてきたのですが、私は走れば走るほど、どんどん調子が落ちてしまい、走れなくなっていってしまった。でも、自分から入れてくださいとお願いして入ったので、意見することはできず、2年ほどオーバーワークで思うように走れませんでした。そこで、小出監督に「私は高橋さんと同じ練習だと疲労が大きいので、監督と私で話し合いながらメニューを決めるのはどうでしょうか。あと2回走ってダメなら、私は辞めます」とご相談したところ、「よし、わかった!」と。練習メニューを変えてから、1回目の大会は実は過去最低記録を出してしまったのですが、2回目の大会で自己記録を大幅に更新して、2003年のパリの世界陸上の切符を獲ることができました。

 

――過去最低記録と、世界陸上に繋がる最高記録を出せたという経験もすごいですね。

 

千葉真子 インタビュー千葉真子   小出監督はあまり叱らず、褒める指導を大切になさっていて、いつも「いいねいいね」と褒めてくださるのですが、私が2年間ずっと調子が悪くて、練習後に今日もダメだったと落ち込んでいる時でも、小出監督はいつもポンと肩を叩いて、「千葉ちゃん、一緒に夢に向かって頑張っていこうな」と明るく声を掛け続けてくださいました。逆に「ごめんよ、俺の指導がまだまだなんだな」と謝られることもあったりして……。目線を合わせて伴走してくださる感じに、すごく心を動かされたし、励みにもなっていました。小出監督は有森裕子さんや高橋尚子さんなど、世界のトップ選手も指導されていましたが、どんな声掛けをしたらこの選手の心が動くのか、目の色が変わるのかということを考え、選手によっていろいろなコミュニケーションの取り方をされていたと思います。
小出監督は結果を待ってくれる方で、本当に励まされました。2003年のパリの世界陸上では、マラソンで銅メダルを獲ることができました。頑張ってよかったな、頑張ることは無駄ではないんだなということを実感できたレースだったと思います。

 

――結果が出なかったり、スランプに陥ったりしたりした時に、どのように気持ちを立て直すのでしょうか。メンタルやモチベーションの保ち方をお教えください。

 

千葉真子   海外の大会に出場した時に、他国の選手と同部屋になったことがありました。「ちょっと練習に行ってくるね」と声を掛けて部屋を出ようとしたら、「エンジョイ!」と言われたんですね。私の感覚では、練習はつらくて苦しくて嫌なものだったので、「エンジョイ」という感覚がなかったなと思ってハッと気付かされる経験でした。でも、改めて考えてみると、確かに夢や目標がなければ、いったい何のために走っているんだろう、つらいから辞めたいという気持ちになると思うのですが、夢や目標を叶えるために頑張っているんだと思えば、多少つらくても、案外楽しんで乗り越えることもできるのかなと思うようになりました。自分で「楽しもう」と思えば、考え方ひとつで、ポジティブに努力が続けられるのではないかなと思います。

 

健康寿命のために大切なのは“貯筋” 長年応援してくれた人たちや若い選手たちに恩返しを――

――現役を引退されたのは2006年。その後の人生の展望については、当時どのようにお考えだったのでしょうか。

 

千葉真子 インタビュー千葉真子   所属していた会社に社員として残るという選択肢もあったのですが、自分がOLとして働いている姿が想像ができなかったので、今までやってきたことを活かしたスポーツ関連の仕事がしたいと考えていました。マラソン大会でゲストランナーとして走ったり、講演活動をしたり、メディアに出演したりして、2011年に「 BEST SMILE ランニングクラブ」を創設して活動してきました。

 

―― BEST SMILE ランニングクラブを立ち上げた経緯というのは?

 

千葉真子   思春期時代の自分には、強みも自信もなく、しかも自分の声もすごく嫌いで、自分を好きになれませんでした。しかし、私は走ることを通じて、様々なことを学び、あらゆることをプラスに転じることができるようになりました。体と心は繋がっていて、体を動かすと心も明るく前向きになれたので、この経験を生かして、スポーツで世の中を明るく元気にしたいという思いで立ち上げました。
2003年のパリの世界陸上で銅メダルを獲った後、翌年の2004年にはアテネ五輪がありました。しかし、当時は日本の女子マラソンの黄金期で、私は補欠メンバーにしかなれませんでした。1日50km、60km走って、食べたいものも我慢して、いろいろなことを犠牲にして頑張ってきたのに、オリンピック選手になれない。自分の競技人生で一番つらかったことです。自分の陸上人生を全否定された思いに駆られて、その時ばかりは前向きな思考にはなれませんでした。誰とも会いたくなくて、部屋に閉じこもっていましたが、ある日やっと部屋から外に出て、いつものジョギングコースに走りに行きました。その時に初めて涙が1粒こぼれて、補欠の選手になってしまったけれど、自分の人生の主役は自分だから、マイペースでもいいから1歩1歩進んでいけたらいいのかなと思えたのです。体が前に進むと、心もちょっと前に進めるということを体感できた経験でした。そうした自分の経験から、スポーツの素晴らしさを伝えていけたらいいなと思い、長年応援していただいた皆さんに感謝の気持ちで取り組んでいました。

 

――市民ランナーやこれから走り始めようと思う人たちへのアドバイスはありますか?

 

千葉真子 インタビュー千葉真子  週1回でも体を動かすと、十分効果はあります。「毎日やらないといけないんでしょ?」「歩いたらダメなんでしょ?」などと難しく考えすぎず、ゆったりと気楽に走ることがいいと思います。楽しく続けるコツは、頑張りすぎないことですね。
健康寿命を長くするためには、筋肉を貯めると書いて“貯筋”が重要です。30代、40代、50代で運動をしていなかった人は、60代、70代でガクっとくることが多いので、「自分はまだ大丈夫」と過信することなく、“貯筋”をしていきましょう。

 

――千葉さんの講演会では、体を動かすことも多いとか?

 

千葉真子   実は、私自身が長時間じっと人の話を聞くことが苦手なんです。最初にストレッチなどをして、体をほぐして、リラックスしながら、後半の陸上のお話などを聞いていただくことが多いです。あと、正しい姿勢や歩き方って、皆さん習ったことがないですよね。実は一番基本となる大切なことなので、そうした指導をしたりもします。体と心が整っていないと、いくら「仕事を頑張ろう」と言っても、頑張れるわけがないんですよね。
講演会では、心と体を整えることの重要性をお話しすることが多いです。いろいろな企業さんや学校でお話しますが、経営者の方にも、ビジネスマンにも、学生、生徒さんにも先生たちにも、何かのヒントになるのではないかと思っています。

 

――それでは最後に、千葉さんご自身の今後の展望をお教えください。

 

千葉真子   今は市民ランナーの方に教えることが多いのですが、今後はトップ選手へのアドバイスもしていきたいと思い、コーチの資格なども取得中です。今、私は49歳なので、50歳からは自分の陸上人生の集大成で、自分がやってきたことで若い選手たちに還元していきたいなと思い、今準備をしています。

 

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