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原千晶 講演会講師インタビュー

1974年、北海道帯広市生まれ。94年に「第21代クラリオンガール」に選ばれ芸能界デビュー。転勤族の家庭のもとで育った原さんは、転校先の学校で自分が発揮できたりできなかったり揺れ動きながら育っていきます。そんな感受性豊かな原さんをいつも支えてくれたのは家族。特にお母さんでした。
芸能界デビュー後、「20代は勢いもあって楽しかったけれど、30歳前後から自分の居場所について悩み始めました」。結局、活動をしばらく休むことを決意。奇しくも、この後に体調の異変を感じレディスクリニック、そして大学病院へ。
結果、2度婦人科系の癌にかかり、最終的には子宮全摘手術を受けることに。現在も2カ月に1度は診察に通っています。5年にわたる闘病生活、現在そしてこれからのこと。体験者だからこそ講演で伝えたいことについて伺いました。

(text:三宅扶樹、photo:小山幸彦)

自分のこととは思えなかった癌宣告

原千晶──2004年に芸能活動を休止した後に、体調の異変に気づき、長い長い闘病生活が始まるのですね?

 

原:よく考えると、わたしは婦人科系の調子がずっと悪かったので、マネージャーをはじめ周りにいる人はみな「原は婦人科系が弱い」と周知の事実にもなっていました。
でも、生理中だけつらかった腹痛などの症状が日常化してきたのです。仕事のこと、そのころお付き合いしていた彼のこと、そして体調のこと。何もかもがマイナス要素でストレスもピークだった気がします。
やっとそこでレディスクリニックに行ってみようと重い腰をあげたのです。

 

原千晶

──そこで癌宣告を受けたのですか?

 

原:いえ、この時点では「子宮の入り口に少し大きな出来モノができているから、これを取った方がいい。大きな病院で手術すべき」と言われ、その後ときどきお世話になっていた大学病院の婦人科へ行き、精密検査を受けました。
結果、子宮の頸部に腫瘍が確認され、取ってみないとわからないけれど、最悪は癌の可能性があるかもしれないと聞かされました。

 

──かなりショックをうけましたか?

 

原:あまりピンときませんでした。
まさか自分が癌にかかるわけがないと思っていましたし、手術で取ればすべて解決、くらいの気持ちでした。何も根拠はないんですけどね。
婦人科系の癌の情報がまだ少ないということもあったかもしれません。昨今は、情報や自己管理の大切さなどがメディアでも多く取り上げられていますし、そういうことはもちろん重要ですが、それとは別の次元で、“すぐには了解できない”というのが宣告された本人の心情なのかもしれません。

 

 

 

目まぐるしい時間の中で揺れ動く気持ち

原千晶──この後、「手術→退院→調子のいい日々→癌宣告」とまさに目まぐるしい時間が続きます。

 

原:検査の結果を受け入れ、子宮の入り口の腫瘍は取り、経過も順調。手術から3日で退院できたし、体調も悪くありませんでしたので、正直拍子抜けした感じでした。
そして、退院してから2週間後、はじめての外来。手術で摘出した腫瘍を病理で調べた結果を聞きに行きました。
重い気持ちは全くなく、すべてが良くなったと信じて疑いませんでした。
でも、主治医から発せられた言葉は「手術で取った腫瘍は癌でした。子宮を全部摘出した方がいい」と。

 

原千晶

──予想もしていなかった残酷な宣告だった。

 

原: 私にとっては癌の宣告よりも子宮全摘の方が衝撃でした。でも、子宮摘出手術をするかどうか、答えを一週間後に出さなければなりませんでした。私の気持ちは日々揺れ動きました。
自分の身体のこと、仕事のこと、恋愛のこと。自分だけになぜこのような不幸が続くのか。手術をして悪い所は取ったのに、更に子宮を全部取らなければならないなんてあまりに究極過ぎました。女性としての人生を大きく左右する事ですし。
でも、最終的には両親と事務所の社長の助言で、手術することに決めました。
「子宮がなくなるのは悲しいことだけれど、とにかく生きていて欲しい」と言う両親。「元気になってまたいっしょに仕事をしよう」と言ってくれる事務所の社長。この信頼できる3人の大人の言葉は大きかったと思います

 

──でも、手術の前日に結局手術をキャンセルしてしまいます。

 

原: 一度は決意したものの、手術までの1ヶ月間、どうしても迷いがありました。
悪いところは取ったのだし、体調もいい、なのに癌と言われた、さらに子宮を全部取らなければならないと。
考えがまとまりませんでした。素直に受け入れることができなかったのです。
主治医の先生にキャンセルの電話を入れることにしました。子どもの頃はもちろん、いつもそばで支えてくれていた母は、同じ女としても複雑な気持ちだったと思います。主治医に電話をする横に立っていた母の顔は今でもよく覚えています。

 

 

月に1度の検診、順調な恋愛。しかし壮絶な癌との戦いが待っていた

原千晶

──結局、手術はせずに月1回の検診で体調も良くなったのですね?

 

原: 手術はあくまでも子宮の癌の再発転移予防のためのもの。主治医の先生からもそう聞かされ、温存して経過観察をしていこうという結果に落ち着きました。
また癌になるかどうかは誰にもわからない。だったらならないようにすればいいんだ。そんな気持ちでした。
仕事も再開し、そこで新しい出会いもあり、とても順調でした。
ところが、2005年に手術してから、その後2007年まで2年は真面目に通っていた検診も、忙しいのと体調がいいのとでだんだん足が遠のきました。
彼は心配して病院に行くことを勧めてくれていましたが、先延ばしにしていたんです。もう大丈夫だろうと高を括っていたのですね。
しかし2009年12月、激痛が襲います。検査の結果、新たな癌が見つかりました。子宮の頸部と体部の癌。非常に大変な治療が必要になってしまいました。
手術は5時間かかりました。卵巣は2つとも温存し、再発予防のために2月から5月までの4カ月間、6回の抗がん剤治療を受けなければならなくなりました。
髪が抜けたりするということは一般の方でもご存じかもしれませんが、投薬した日の夜からしびれや下痢、不眠、倦怠感などの副作用があり、これはもう、想像を絶する苦しさでした。
とにかく時間が流れて終了する日をひたすらに待つしかないのです。
抗がん剤治療は肉体的・精神的両面からすべてを奪っていくようでした。
追加の治療が必要な“本物のがん患者”に私はなってしまったと感じていました。

 

 

 

気持ちを共有できる場を

原千晶──今までの経験から、得たことは何だと思いますか?

 

原:私はずっと逃げていました。
仕事がうまく行かなければ事務所のせい、恋愛がうまくいかなければ相手のせい。
自分とは向き合わず、誰かのせいにすることで自分を守ろうとしていたのです。
両親や彼は全力で支えてくれましたし、今でもそうですが、でも病気は代わってくれません。自分で必ず解決しなければいけない。自分の心の声、体の声にもっともっと耳を傾け、向き合わなければいけないのです。それは、自分の人生に自分で責任を持つこと。
定期的に検査することはもちろん、不調が日常になってからでは遅いのです。
癌という病気の場合は、再発や転移によって死へ近づいていることを意味します。
人間、最後は絶対に命が大切。生きていることが何より大切です。
手術をキャンセルした自分、今の私だったらあり得ない。
あの状況がどのようなもので、手術することがいかに重要だったか。追い込まれていたとは言え、ものごとの本質から逃げていたのです。
ものごとの本質ときちんと向き合って生きていかなければいけないということを、闘病の経験は私に教えてくれました。

 

──がんについての本をお出しになりました。

 

原:はい。『原千晶39歳 がんと私、明日の私、キレイな私。』というタイトルなんですが、これまでの経験やがん患者の気持ちを綴ったものではなくもっとハウツー寄りの本です。
治療法や具体的な解決方法など実用的なテクニックなどを集めてまとめています。
癌という病気は、情報を集めることも大切ですから、情報のひとつとして使っていただければと思っています。

 

原千晶──原さんが講演会で伝えたいことはどんなことですか?

 

原:私は闘病後、「よつばの会」という婦人科癌の患者会を立ち上げました。
私自身、闘病はとても孤独なもので、その経験はした者にしかわからない。
それを同じ女性同士分かち合える場所が必要だと感じたからです。
講演会でも声高に壮絶な経験を訴えるのではなく、病気の有無に関わらず、会場の皆で気持ちを共有できるようなお話をさせていただけたらなと思っています。
女性として失ったものはあるけれど、その分たくさんの人と出会いたいですし、女性として生まれてきたことの意味をみなさんと探っていきたい。
病気をしたことは私の大きな経験ですが、生きていればそれだけではないですものね。
女性として自分の身体と心を守ることの大切さをこれからもお話ししていけたら・・・そんな気持ちでいます。

 

 

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