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青木愛 講演会講師インタビュー

1985年、京都府生まれ。8歳から地元の京都踏水会でシンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)を始め、小学4年生で国内大会のジュニア五輪で優勝。
2008年北京オリンピック日本代表に選出。チーム種目で5位入賞。北京五輪を最後に現役を引退。2010年、びわこ成蹊スポーツ大学を卒業。
今はメディア出演を通じてアーティスティックスイミングに限らず、幅広いスポーツに携わっている。

(text:大橋博之、photo:小野綾子)

厳しい練習に耐えないと夢は叶わない

──8歳からシンクロナイズドスイミング(現・アーティスティックスイミング)を始められたのですね。

青木愛 幼稚園から地元、京都市のスイミングスクール「京都踏水会」で水泳を始めたのですが、よくシンクロのお姉さんに遊んでもらっていたのと、シンクロコースのオリンピック選手である奥野史子選手が練習に来られているのを見て、憧れていたんです。それで、8歳でシンクロに転向しました。そこから23歳までずっとシンクロ一筋です。

 

 

──シンクロの魅力は何ですか?

青木愛 やはり、綺麗なことですね。普通に泳ぐだけではない水泳競技にチャレンジしたいと思うようになりました。

 

 

──いつ頃からオリンピックに出たいと思い始めたのですか?

青木愛 始めた頃からの夢が「オリンピックに出る」ことでした。やるからにはオリンピックに出ると決めていたんです。それを目標にきつい練習を耐えていました。

 

 

──きつかったのですか?

青木愛 しんどいじゃないですか(笑)。上手くできないと怒られるし。シンクロは好きなんですけど、練習は嫌いでしたね。でも、その厳しい練習をしないと夢は叶わないんです。「オリンピックに出る」と決めたことを途中で諦めたくなかった。私の性格的にも「途中で諦めることは自分に負けることになる」と考えていました。

 

 

──テレビでよく、シンクロの練習の厳しさを見るはことがあります。

青木愛 私の頃のシンクロは日本のお家芸で、メダルを取って当たり前。だから、とにかく厳しかったです。しかも、厳しかったのは小学生の頃からでした。夏休みの練習時間は朝の9時から夜の6、7時まで。その頃の目標が全国大会での優勝だったので、厳しい練習の日々でした。

 

 

──そんな厳しい練習なら嫌にもなりますね。

青木愛 私が嫌と思わなかったのは、小学校の間だけでした。井村雅代先生が率いる井村シンクロクラブに所属すると、さらに練習が厳しくなり、「私はなんでこんなことしてるんだろう」と思うようになりました。

 

 

──青木さんは常に挫折から這い上がってこられた方ですが、最初の挫折はいつだったのですか?

青木愛 高校2年生の時です。苦手な先輩がいたのと、友達が遊んでいるのが羨ましくなったんです。「普通の高校生活を送りたい」と思って、練習をさぼりました。それが最初の挫折です。

 

 

──どれくらい休んだのですか?

青木愛 一週間くらいです。でもその一週間が私のなかではとても長かったです。それ以上、休んでいたら元に戻れなかったと思います。

本当は1日くらいで戻りたかったんです。でもコーチに怒られると思うと戻れませんでした。それでずるずると一週間が経ってしまったんです。遊んだのは1日だけ。練習を休んでもぜんぜん楽しくありませんでした。学校から帰っても家でダラダラするだけだったんです。

 

 

──どうして戻れたんですか?

青木愛 自分でもいろいろ考えたり、コーチが毎日電話して下さったり、クラブの先輩のお母さんが家に来て話をしてくれたので戻ることができました。

 

 

──クラブの先輩のお母さんとは?

青木愛 当時日本代表のトップとしてオリンピックに出場された選手のお母さんです。「その先輩も昔はいろいろ苦労したけどそれを乗り越えてきたから、今があるんだよ。」と先輩の経験談を聞かせて頂きとても響いたんです。戻るとコーチにめちゃくちゃ怒られました。それからどうしたかはまったく覚えていないです。私は嫌なことは忘れるタチなので(笑)。

 

 

 

決めたことを最後まで貫かないのはかっこ悪いなと思った

──20歳の時に世界水泳で日本代表に初選出されましたが、肩のケガで離脱されましたね。

青木愛 最初の日本代表を辞退しなければいけなかったというのは、私のなかでは辛い経験でした。

でも、そのおかげで井村先生にマンツーマンでリハビリを見て頂いたり、普通では経験できないようなことを経験できたりしたので、挫折ではなくプラスだったと考えるようにしています。

 

その意味では高校の時の挫折は、一度シンクロから離れたから「私はシンクロをしている時が一番輝いている時だ。シンクロが好きだ」ということに気づけたし、肩のケガの時は井村先生とのマンツーマンの時間がもらえたと考えるようにしています。後付けですけどね。

 

 

──焦りはなかったのですか?

青木愛 代表は一度離れるといつ戻れるかわかりません。そこに不安はありました。それにケガがまた再発したらどうしょうとか。それまで大きなケガをしたことがなかったから余計でした。

それでも続けられたのは、「オリンピックに出たい」という気持ちが薄れなかったからです。そうじゃなければ「もういいや」と思っていたかもしれないです。

 

 

──「初志貫徹」の意志が強いんですね。

青木愛 最初に決めたことだし、オリンピックに出るために辛い練習を小学校2年生からずっとやってきたのに、途中で辞めたらバカみたいじゃないですか。そんなにしんどいことを何年もやっていたのに。やっぱり決めたことを最後まで貫かないのはかっこ悪いなと思ったんです。

 

 

──そして、2008年北京オリンピックに日本代表で出場を果たしました。

青木愛 代表に選ばれると思っていなかったんですよ。落ちると思っていました。一次選考で11位だったので。でも、最終選考までの3か月は死ぬ気で練習しました。そこで選ばれなかったら辞めようと思ってました。

選考会終了後私自身選ばれなかったと思っていたので、「シンクロ人生終わった。今後、何しようかな」と考えていたら自分の名前が呼ばれ、驚きが大きくあまり嬉しさは感じなかったですね。

 

 

──オリンピックでは5位入賞という結果を残しました。

青木愛 「オリンピックに出る」という夢を持ってシンクロを続けてきましたが、いつからかメダルを取らなければ意味がないという考えに変わっていました。だからメダルをとれなかったのは残念です。

 

 

──北京五輪を最後に現役を引退しましたね。それほど北京五輪というものは自分の中では大きかったのですか?

青木愛 母が病気だったことと、先輩方が全員辞めたことが理由です。次に自分がトップに立って次に来る選手たちを引っ張って行けるかというと、そんな性格でもないですしね。私は一番年下で、先輩の背中を追いかけたいタイプだったんです。なにより、北京のチームメンバー以外とはやれる気がしなかったんです。それほど4年間が濃かったんです。

 

 

──完全燃焼はした?

青木愛 完全燃焼ではないけど、もういいかなと。メダルには届かなかったけど、自分達の実力を出し切っての5位だったので。

 

 

 

したいと思ったことはチャレンジする。違うと思ったら辞めてもいい

──厳しい練習を続けられたモチベーションはどうすれば作るのでしょう?

青木愛 挫折した時にどれだけ自分を客観的に見られるか、ということと、何を目標にやっていたのか、何を夢にしていたのかをもう一度、頭で整理することだと思います。

そうすると、挫折やぶつかった壁を乗り越えられたり、案外その壁が低かったりすると思うんです。

高校の時以外にも細かい挫折は探し出したらキリがないほどあります。でも、全部、「何を目指しているのか」を考えて乗り越えてきました。

 

 

 

──青木さんを見ていると強い人だと感じます。

青木愛 いや、メンタルはとても弱いですよ。打たれ弱いし、コーチに言われたことはすごく気にして引きずるし。ただ、弱い部分を見せたくなくて隠しているところはあるかもしれません。

メンタルが強かったら、高校2年生のサボった時も、「怒られても大丈夫」と思って戻ったと思うんです。

 

 

──シンクロを引退されて、スポーツコメンテーターやタレント・モデルとして大活躍ですね。

青木愛 シンクロとは違ってとても楽しくやれています(笑)。まだ学生だった頃にテレビの出演依頼が来て、井村先生に相談して今の事務所を紹介してもらったんです。2008年に引退して、2010年に正式に所属になりました。だから、正直自分から「この仕事がしたい」と思ったわけではないんです。

最初の仕事がテレビの『ジャンクSPORTS(フジテレビ系)』だったんですけど、オンエアの日に母と一緒に病室で見ていたら、母が喜んでくれたので、この道もいいかなと。

 

 

本当にシンクロしか知らなかったので、今は総てが新しい世界です。いろんなことができるのが、とても楽しいですね。

シンクロは練習時間も長くて、しんどい練習をしないといけないのですが、違う競技の選手にインタビューすると、競技それぞれに同じように厳しいことがあるんだと知れたり、この競技にはこんな魅力があるんだと感じられることがとても多いんです。今までの狭い世界から広い世界に出た感じです。

 

 

──新しいことにチャレンジするのは大切ですね。

青木愛 大事だと思います。興味があることは何でもチャレンジしたほうがいいと、子どもたちのための講演会に呼ばれた時には言っています。私は小学校2年でシンクロと出会って、オリンピックに出ると決めて、シンクロ一筋でやってきました。でも、今の子どもは夢がない、何をしていいのか分からないという子がすごく多いんです。

 

だから自分がしたいと思ったことは自分からどんどんチャレンジする。それで違うなと思ったら辞めてもいい。でも、簡単に辞めるのではなくて、ある程度まで行って、他にもやりたいことが見つかったらそれもチャレンジすればいい。そこから本当に自分がしたいことを見つければいいと言ってます。

 

 

──ひとつに絞らなくてもいい?

青木愛 絞らなくてもいいんじゃないですか。海外のスポーツ選手は季節によって出来るスポーツを変えたりして、掛け持ちしている選手もいます。アスリートでありなからモデルという人もいます。

 

 

──オリンピック・パラリンピックが2021年にずれました。そこでの期待はどうでしょうか?

青木愛 1年延期になったことで、それをプラスに捉えて、足りないものを補って行く、修正して行く1年になると思います。アーティスティックスイミング(旧・シンクロナイズドスイミング)に関していえば、海外では身長の高い子が多いですが、日本も負けじと高い子を集めています。2020年ではまだ、まとまっていない状態でしたが、この1年でどこまでまとまりを見せてくれるかに期待しています。

 

 

──最後に、青木さんの講演会ではどのような話が聞けますか?

青木愛 今までお話したことが中心になると思うのですが、私が現役時代に経験してきた、失敗からのモチベーションの高め方などをお話しできればと思います。きっと社会人や学生の方々にも共通した悩みがあると思うので、挫折の乗り越え方のヒントになればと思っています。

大切なのはなにより、最初に決めたことを貫くことです。

 

 

──とても貴重なお話しありがとうございました。

 

 

 

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